逆輸入レスラーから再び全日本の中堅に・・・

そんなカブキのもとに、日本から一本の電話がかかってきた。アメリカでの活躍は日本にも伝わっており、その人気に目をつけた馬場から帰国命令が下ったのだ。しかし、カブキは日本に帰るのがイヤだったという。

「あの頃、アメリカで軌道に乗り、スケジュールがびっしり入っていたからね。しかも、馬場さんは『カブキとして帰ってこい』と言う。俺としては、アメリカならともかく、本物の歌舞伎役者がいる日本で『カブキ』を名乗るのはイヤでイヤでしょうがなかった。結局、一度は馬場さんに義理を返すために帰国を決めたけど、気乗りしなかったのが正直なところだよ」

ところが、そんな当人の気持ちとは裏腹に、カブキ人気は日本初登場と同時に爆発する。カブキが参戦した83年2月の『エキサイトシリーズ』は、馬場が海外遠征で欠場していたにもかかわらず、会場は連日超満員。全日本旗揚げ以来、テレビの放映権料を除いたシリーズの興行収益が、初めて黒字になるほどの盛況となったのだ。

▲全日本の救世主となったザ・グレート・カブキ

まさに全日本の救世主。しかし、アメリカから帰国した馬場の反応は意外なものだった。

「シリーズ最終戦の試合前、馬場さんから『おい、高千穂。大熊(元司)や(グレート)小鹿らお前の先輩がいるから、あいつら以上にギャラを上げてやることはできないからな』って、いきなりカネの話をされたんですよ。こっちは客を入れたんだから、普通ねぎらいの言葉のひとつでもあっていいものだけど、わざわざ『ギャラは上げられない』って言いに来るんだから、バカ負けしたね」

カブキは、アメリカでトップの稼ぎをしていたにもかかわらず、全日本でのギャラは中堅だった3年前から据え置かれた。馬場のなかでは人気選手になっても“高千穂”のままだったのだ。

さらに、人気爆発したカブキのもとには、テレビ出演をはじめとしたオファーが殺到したが、その多くは馬場元子(もとこ)夫人に握り潰されたという。

「全日本という会社は、馬場さん以上に目立っちゃダメだったんですよ。だから『笑っていいとも!』への出演依頼や、日本テレビからカブキがアニメ化される話があったんだけど潰されて。コマーシャルの話もダメ。ほとんど潰されたね」

それでもカブキが文句をひとことも言わなかったのは、全日本に一度だけ出て、すぐアメリカに帰るつもりだったからだ。ところがその後、カブキは頻繁に全日本のリングに登場することとなる。

「馬場さんがダラスのフリッツと直接交渉して、勝手に自分のスケジュールを切っちゃったんですよ。それでアメリカと日本を頻繁に行き来するようになると、アメリカは4か月周期でストーリーを組むから、長期で稼げなくなってしまった。一回、義理を返そうとしたのが間違いだったな(苦笑)」

カブキ人気は翌84年に入っても衰えなかったが、全日本に定着するとブームは徐々に沈静化した。やはり年に数回、“逆輸入”というかたちで参戦していたからこそ、ミステリアスなムードが保たれていたが、日本に定着すると、どうしても新鮮味が薄れてしまう。そして、いつしかカブキは、かつての高千穂と同じ、“中堅の要”というポジションに戻ってしまったのだ。

それでもカブキがプロレス界に残した功績は絶大だ。カブキの登場後、ロード・ウォリアーズ、スティング、アルティメット・ウォリアーなど、人気ペイントレスラーが続々誕生し、それはアメリカマット界の新たなトレンドとなった。

さらにアメリカに渡った日本人レスラーも、“カブキの息子”という設定だったグレート・ムタ(武藤敬司)をはじめ、TAJIRIなど、毒霧を吹く“東洋の神秘”キャラクターに変身するのが定番となった。

ザ・グレート・カブキは、プロレス界の偉大なるオリジネーターなのである。

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。