当事者同士が“秋田失神事件”の真相を語り合う!
天龍と原のサンドイッチ延髄斬りを食らい昏倒したハンセンの姿は、日本テレビ『全日本プロレス中継』の生放送を通じ、全国のファンが目撃した。1分近くリング上でピクリとも動かなくなったハンセンだったが、意識を取り戻すやトペ・スイシーダの形で場外へいる天龍に飛びかかり、怒りに任せ試合そっちのけで大暴れ。ブチ切れたプロレスラーの恐ろしさを、まざまざと見せつけられた衝撃的な出来事だった。
「あれはね、試合云々よりも終わってからスタンがこっちの控室を探しているから逃げろと、(ザ・グレート)カブキさんに言われたのを憶えている」
史実としては、「怒りの収まらぬハンセンが殴り込んでくる」と聞き、天龍と原が体育館の窓から外へ出たと伝えられているが、確認すると実話だったとのこと。龍原砲の2人が荷物を抱えて窓から飛び出すシーンを想像していただきたい。
「私も試合に関しては気を失ったから記憶がない。ただ、カブーキに『試合は終わったんだからもういい。落ち着け!』と言われたのは確かです。カブーキはバックステージに戻る前……リングサイドの時点で、そう言って私をなだめようとしていた。結局、カブキさんのせいでテンリューに仕返しできなかったじゃないか」
「あんなの狙ってできないよ。ハンセンが動いたから(天龍の顔面へのジャンピングキックが)アゴに当たったの」
「動かなければやられてしまう。じっとして食らうわけにはいかないじゃないか」
お互いに自分のせいではないと主張する2人のやりとりに、ファンは大ウケ。そして、天龍は控室から逃げ出したあとのエピソードも明かした。
「その日はね、たまたま外国人勢と同じホテルが宿舎だったんだよ。だから、スタンがいなくなる(自分の部屋に入る)まで、俺はタクシーの中でずっと待っていたんだ」
秋田失神事件のあとに、そのようなことがあったとは……この4日後、横浜文化体育館で両者は一騎打ちで対戦。首固めで勝ちPWFヘビー級とUNヘビー級の2冠王になった天龍は、それでも収まらず逆にハンセンの控室へ乗り込むも「廊下に放り投げ出された」という。
秋田でさんざんな目に遭いながら、それでもハンセンの控室へ殴り込もうと思ったのだからやっぱりすごい。もっとも、ここでも不沈艦は「それは知らない話だな。テンリューの記憶が怪しいんじゃないか? 私がそんなことをするはずがない。まあ……時と場合によっては投げたかもしれないが、だとしても何度もテンリューに頭を蹴りまくられたから、マトモな考えができなかったのだろう」と、シラを切ろうとする。
横浜の4ヵ月後には、長野でもタイトルマッチで対戦。開始前にハンセンがベルトで襲いかかり、天龍は瞼から流血。リングアウト負けを喫し、2冠から転落した。この日のことは9月26日に小社から発刊された天龍夫人・まき代さんの著書『天龍源一郎の女房』(嶋田紋奈・天龍プロジェクト代表と共著)にも詳しく記されている。
「長野ハネ発ちで家に帰ってくるはずなのに、なかなか帰ってこないので『これは変だな』と思って救急箱を抱えて玄関で待っていたこともありました。その時は、ハンセンにチャンピオンベルトで殴られて、長野の病院で右の瞼を15針も縫ってから、移動バスに揺られて朝方に帰ってきました」(『天龍源一郎の女房』より抜粋)
それをじっと聞いていたハンセンが「お互いに全力でぶつかりました。だからこそ、私たちの闘いが特別だったことはファンにも伝わったと思います」と振り返ると、天龍も「スタンとブロディには、レスラーのタフさを教えてもらった。それは感謝しています」と賛辞を送った。
こうした激闘を重ねた果てに、2人は「龍艦砲」を結成。自分と天龍のスタイルを一つにできたことは、ハンセンにとって大きかったようで「あのタッグはいい思い出しかない。コンビとしてうまく噛み合っていたと思う」と世界タッグ王座3度戴冠、1989年の世界最強タッグ決定リーグ戦全勝優勝の功績を誇った。
天龍が「スタンの強さを知っていたから、これでラクができると思ったよ」と言えば、ハンセンは「いや、私よりテンリューのほうが動いたじゃないか」と笑う。1989年11月29日、タッグリーグ公式戦で天龍が馬場からピンフォール勝ちをあげた瞬間を目の当たりにしたときも「まったく驚かなかった」と言うが、その快挙を生み出したのは「スタンがパートナーで安心感があったから(勝てた)」と、天龍が付け加えた。
あのザ・グレート・カブキがサプライズで登場!
闘いからタッグを経て、天龍が全日本を離れSWSへ移籍したことにより、2人の関係に一度はピリオドが打たれた。
「プロレスラーは、自分の道を切り拓かなければならない。当時のテンリューとオールジャパンの関係がどんなものだったか私は知る由もないが、そういうビジネスのチャンスがあったのであれば、あの選択は間違っていなかったと思います」(ハンセン)。
そして、天龍が全日本マットへ戻った2000年。10月21日に愛知県体育館で久々の一騎打ちをおこない、このときも試合中に意識が飛んで、気づいたら控室にいたハンセンは「これは神のお告げだ」と思い、現役引退を決意した。
2015年11月15日におこなわれた天龍の引退興行にもハンセンは駆けつけた。「レスラーにとって一番難しい決断が引退。自分がリタイアしたあともテンリューの試合は見ていたが、本人が決めることですから。引退セレモニーに参加できたのは光栄でした」と語るハンセンに対し、「俺のプロレス人生のなかで、スタンはどうしても必要な人だったから(セレモニーに来てもらった)。こんなに長くね、プロレスをやれたのはジョージアでスタンのソーセージを食ったからだよ!」と、ここに来てよもやのホットドッグネタ。冴まくる天龍節に、ハンセンも楽しそうだった。
実はこの日、龍艦砲のTシャツを着るよう紋奈代表は渡していたのだが、ハンセンに懐かしんでもらえるようにと天龍は「鶴龍コンビ」のTシャツ姿でモニターに映った。ところが、目の悪いハンセンはずっと鶴田さんのイラストが馬場さんに見えていたようで、これには「ジャンボが怒ってるよ!」と天龍がたまらず突っ込んだ。
ここで「2人の顏が見たいから」と密かに来場していたザ・グレート・カブキが登場。そう、秋田事件の真相を会場で聞いていたのだ。「あのとき、控室には(みんな避難してしまい)自分ひとりしかいなかったから、自分が(ハンセンを)止めるしかなかった。もう1人で頑張りましたよ」と笑みをこぼす。
天龍だけでなくカブキとも再会できたハンセンは「アメリカと日本の両方で成功を収めたカブキさんと知り合いになれてよかった。あのとき、私を止めることができるのはカブキさんしかいなかったでしょう」と顔をほころばせた。
奇しくも秋田事件の当事者&裏当事者3人が一堂に会す形となったイベントは「次回、日本へ来るときにはフランクフルトをいっぱい持っていくから、一緒にホットドッグを作りましょう」とハンセンが呼びかけると、天龍は「スタン、今度ホットドッグを作るときはオニオンを入れてくれる?」とリクエスト。これには「オフコース! ポークとビーンズだけでなく、オニオンも用意するよ」と返答。ジョージア時代のホットドッグで始まり、ホットドッグで締められるというハートウォーミングなイベントとなった。