アーサーは何と戦うべきだったのか?

2021年10月31日午後8時頃、住所不定無職の24歳の男が、走行中の京王線の中で70代男性の胸をナイフで刺し、ライターオイルを車内に撒いて火をつけた。その男は『バットマン』シリーズのジョーカーのコスプレをしていた。

その日はハロウィンであり、犯行前に渋谷の群衆の中を歩く男の姿が監視カメラに記録されていた。男は犯行後、自分の姿を衆人に見せつけるように、車内のイスに座って、右手にナイフを持ちながら、震える手でタバコを吸っていた。

容疑者の男によれば、京王線の事件は、8月6日の小田急線内で発生した刺傷事件に触発されて起こしたものだという。その日、36歳の男が小田急線内で乗客を切りつけ、男女10人が重軽傷を負った。

「幸せそうな女性を見ると殺したくなった」と男が供述したことから、事件は女性に対するヘイトクライム(差別意識に基づく犯罪行為)、あるいは「フェミサイド」(女性虐殺)として報道された。実際に犯行当日、男は新宿区の食料品店で女性店員に万引き行為を通報され、その腹いせとして、女性店員の殺傷を計画していた。

京王線の事件が起こった日は、ハロウィンの日であるのみならず、第49回衆議院議員総選挙の当日でもあった。犯行が行われたのは、その選挙速報と特番が流れていた時間帯である。

選挙結果をめぐってメディアでは、ポピュリズム〔世界を「エリート・特権階級」と「大衆」に二分し、真の大衆の権利を守るという名目のもと、エリートや知識人が象徴する既存の秩序や体制に批判的・破壊的であろうとする政治的立場のこと〕的な手法を戦略的に用いる日本維新の会の躍進が告げられていた。

かつて、ぼくは『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書、2016年)という本の中で、男性の弱さの問題、あるいはインセル(非モテ)の問題を扱ったことがある。

Incel(インセル)とは何か?

これはInvoluntary Celibateの略語で、直訳すれば、望まない禁欲者、非自発的な独身者、というような意味である。近年、インセルたちの反逆や暴力という現象が国際的な社会問題になっている。

ぼくはさらに『非モテの品格』の続編としての『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か――#MeTooに加われない男たち』(集英社新書、2021年)で、まさに映画『ジョーカー』について論じてみたこともある。

だから、上記の事件の報道を目にしたとき、心にざわつくものがあった。ちょっとした不運がさらに加われば、ぼくもまたインセルになりかねなかったし、今後なるかもしれない。あらためてそう感じた。

もちろん個々の事件の詳細についてはわからない。単純化されたアングルから事件を切り取って理解したつもりになるのは危険だろう。

ただ、気になるのは、彼らが自分たちの暴力を社会的弱者(とされる人々)へと差し向けようとしたことだ。それらの犯罪は「誰でもよかった」のではなかった。つまり「無差別」殺傷ではなかった。明らかに「差別的」な殺傷だった。

これらの事件には、2016年7月、神奈川県相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で起きた、45人もの死傷者を出した事件とも似通った手触りがある。

京王線の事件の男は、現代的な弱者男性のシンボル、ジョーカーのコスプレをして犯行に及んだ。

映画『ジョーカー』では、アーサーの暴力に触発され、その欲望に感染するかのように、ピエロの仮面をかぶった群衆たちが、アナーキーな暴力に陶酔し、街を焼き、車を破壊した。

ただし、忘れるべきではない点が一つある。小田急線や京王線の事件の犯行と、『ジョーカー』でアーサーが振るった暴力には、決定的な違いがある。

日本社会で起こった一連の事件の犯人とは違い、アーサーは少なくとも、「下」(と社会的に見なされている弱者たち)ではなく、資本主義と権力構造の「上」へと、その銃口を差し向けたのである(たとえ複雑な家族関係のもつれから、母親を殺してしまったとしても)。

アーサーの中にあったのは、無差別を装った差別的な憎しみではなく、社会的な怒りだった。

弱者男性としてのアーサーが殺したのは、「幸せそうな」女性でも、高齢者でも、障害者でもない。また彼には、外国人や移民に対する排外主義的な差別意識があるわけでもなかった。

どんな暴力も許されない、と優等生のように言いたいのではない。そうではなく、ぼくらは戦うべき敵を間違えるべきではない、と言いたい。

映画の中のアーサーが、本当に戦うべき敵と戦えていたのか。もちろん、そこには疑問も残る。確かにアーサーは社会的弱者に向けて鬱憤を晴らすようなマネはしなかった。しかし、承認欲求と家族幻想をこじらせて、有名人の中に「父」を求めたあげく、母親を殺害してしまったからだ。

では、誰かに承認され、愛され、癒されようとする前に、アーサーは何をなすべきだったのか。アーサーが弱者男性としての自分自身を愛するためには、どうすればよかったのか。

権力者や金持ち、社会構造とあくまでも戦い続けるべきだったのか。

すべてを諦め、自分の運命に忍耐し続けるべきだったのか。

それとも、責任があるのは国家・行政や資本・企業の側であり、彼にはなんの責任もなく、福祉国家や社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)を十分に機能させるべきだった、ということだろうか。

立ち止まって、そういうことについて考えてみたかった。

▲アーサーは何と戦うべきだったのか? イメージ:アッパーイースト / PIXTA