まさかの空輸! 二軍にも徹底された「野村の考え」

当然、監督である野村さんも初めは遠い存在でした。高卒で入団した僕は、二軍の西都(宮崎県)キャンプに参加しました。当時、ヤクルトの一軍キャンプ地はユマ(米アリゾナ州)だったんです。本当に遠く離れたキャンプでしたが、思い出深い出来事がありました。

野村さんのキャンプといえば、ミーティングです。休みの前日を除き、毎晩19時半から1時間みっちり行われました。野村さんのミーティングは独特で、勉強会や講義というべきものでした。「人生とは……」から始まり、野球についての基礎的なことから、応用的な高度な考え方まで踏み込んでいきました。『野村ノート』という本にもなっていますが、その中身をさらに細かく教わる感じです。

そのユマで行われていた野村さんのミーティングは、二軍の西都キャンプでも行われていました。なんと、野村さんの「講義」をカセットテープに録音して、キャンプ宿舎に届けられたのです。

ミーティングの時間になると集合して、そのカセットテープを再生します。その内容を浅野啓司コーチが、バーっとホワイトボードに書き出すんです。僕らはそれを聞きながら、写しました。途中で音声が早いなと思ったら一時停止して、「いいか、よしいくぞ!」といった具合です。

その内容は、新人選手にとっては難しいことが多かったのですが、僕にとってスーっと入ってきたものもありました。

それは「ボールカウントの性質」という項目でした。ノーボール・ノーストライクからフルカウントまで、ボールカウントは12種類あります。それぞれのカウントにはこういう性質があるから、ピッチャーはこういうふうに考えて、逆にバッターはこういうふうに考えているよ、という「心理」についてでした。僕はそれを聞いたとき、不思議とスーっと入ってきたのを覚えているんです。

「ボールカウントの性質」で驚きの結果に

2年目の秋、現在の宮崎のフェニックスリーグの前身にあたる、高知の黒潮リーグがありました。一軍は日程が終わっていて、野村さんが視察に来ていたんです。二軍の選手とはなかなか話す機会がないというので、夜にミーティングをやってくれました。大事なことがポンポンと出てくるのですが、そのなかにまた、「ボールカウントの性質」がありました。

それで、もう一度、全部書き出して復習しました。翌日の試合、西岡剛さんという近大からドラフト1位で入団した投手とバッテリーを組んだのですが、あらかじめ「たぶん、ネット裏で監督が見ているので、昨日のミーティングそのまんまやっていいですか」と聞いたところ、「お前が好きなようにやっていいよ」という返事だったので、言われたとおりにやってみました。

その試合はダイエー戦だったのですが、相手打線をわずか2安打に抑え込み完封勝利できたんです。その2安打というのも、のちに主力になる吉永幸一郎さんが打った、泳ぎながらの技ありの一打と、引っかけたボテボテのゴロが一二塁間を抜けたものだけ。

僕自身、野村さんの言った通りにバッターが反応したので、びっくりして今でも覚えているくらいです。

ただし、野村さんもその後、阪神や楽天で監督をされましたし、「野村の考え」を聞いて学んだ選手たちがあちこちに散っているので、それをそのまま使うというわけにはいきません。もちろん、「カウントの性質」という意味では、今も昔も変わっていないのですが、「それを逆手にとって」ということが当たり前にやられるようになっています。

僕も阪神に移ったあとのヤクルト戦では、僕と一緒に野村さんの話を聞いていた宮本慎也さんや、古田さんといった選手を打席に迎えたときは、「どっちがどっちを利用するか」という勝負になっていました。裏なのか、裏の裏で表なのか、そのまた裏でやっぱり裏なのかと……。

さて、野村さんのミーティングの話が出たところで、次回は高卒入団のキャッチャーがどんなキャンプを過ごしていたかを語っていきます。


プロフィール
野口 寿浩(のぐち としひろ)
1971年生まれ。千葉県習志野市出身。1989年ドラフト外でヤクルトスワローズに入団。二軍で結果を残すも、同期に古田敦也がいたため、二番手捕手としてプレー。日本ハムファイターズへ移籍後すぐに正捕手の座を獲得し、同年のオールスターゲームに出場。阪神へ移籍してからは矢野燿大とポジションを争うこととなり再度、二番手捕手としてプレー。2009年横浜ベイスターズへ移籍。2010年引退。引退後は野球教室を開設する傍ら、野村監督の下で培った知識や経験を基に、独自の切り口を持った解説が好評を得ている。