イギリスをモデルにした都市開発

明治維新以降、徐々に資本主義経済の下で国力をつけてきた日本は、地方に居所をもっていた人たちが中央政府のある政治経済の中心地、東京近郊に集まってきました。急速な人口増加により、東京の中心部から城東部方面は、かなり過密で衛生面にも問題のある劣悪な居住環境になりました。これは急速に発展する都市部に往々にして起こる現象で、ロンドンの産業革命以降も似たような状況でした。

当時の東京では比較的豊かな階層が住むエリアはよいとして、所得が低い都市流入民は、土地の価値が低い場所に住むことになります。それは低湿地や窪地のような水はけが悪く湿気の高い場所、あるいは線路や工場周辺の騒音、悪臭などがあってとても不快な環境にありました。

そういった場所には安普請の住宅や長屋が建設され密集していました。当時は下水設備など完備していませんでしたから、不衛生で感染症罹患リスクも高かったわけです。特に環境の悪いところは「貧民窟」などと呼ばれていました。

▲急速に発展する東京は問題も抱えていた 出典:tampatra / PIXTA

そのような状況は社会問題にもなっていました。欧米の都市開発、住宅地事情を視察した国や財界エリートたちは、それらを問題視していました。その中で、さらなる都市の過密化を懸念して、日本でも欧米の都市開発をモデルとした計画的で衛生的な郊外住宅地開発の必要性を訴えるリーダーが現れました。

巻頭でご紹介した渋沢栄一もその一人です。

渋沢は当時の財界の有志とともに出資し、1918年に「田園都市株式会社」を設立、洗足、大岡山、田園調布といった新しい住宅地を開発することになりました。

これらの開発は前例のないことではなく、模範とするモデルはイギリスにありました。19世紀イギリス。産業革命を契機にロンドンを中心に重工業が急速に発達した結果、ロンドンは過密化、貧困化、衛生環境の悪化などにより、大変住みにくい場所となりました。

これを憂慮したのが近代都市計画の祖であり、社会改良家であったエベネザー・ハワード博士です。彼は『明日の田園都市(Garden cities of Toーmorrow)』という書籍で、ロンドン中心部の経済に依存しない、郊外部に理想の職住近接の計画的住宅地を造ることを提唱します。

ハワード氏のすごいところは、提唱するだけでなくロンドン北郊のレッチワースという場所に実際に「田園都市」を造ってみせたのです。これは日本をはじめとする諸外国の大きな手本となりました。

日本では1907年に阪急電鉄の創業者、小林一三が「箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)」を設立しました。これにあわせて沿線を宅地開発するとともに、鉄道需要を喚起するために、郊外側の宝塚に宝塚歌劇団をはじめとする娯楽施設をつくります。

一方の都市側にはターミナル型デパートを建て、やがて増加する沿線住民の消費ニーズを満たすようになります。遠くに娯楽施設、ターミナルにデパート、これはやがて私鉄の基本形となりました。

田園都市計画のはじまり

鉄道事業者からスタートした民間企業が、鉄道を利用する乗客を増やすために住宅地開発、分譲事業に手を染める。同時に都心側、郊外側双方にさまざまな輸送需要を生み出すような仕掛けをすることによって、沿線価値を高めていく独自の手法を編み出していきました。小林一三は日本における「田園都市」づくりの先駆けとなったわけです。

ただ、本家の「田園都市」であるエベネザー・ハワードがつくろうとしていたのが、都心部の産業経済に依存しなくてもある程度やっていける自立分散の衛星都市であったのに対して、日本の民間鉄道事業者が「田園都市」を模倣、発展させてつくったことによって、郊外から都市部へ人を運ぶ「通勤型田園都市」に変換していったことはやがて大きな意味を持ちます。

▲取り入れた「田園都市」を独自に発展させた 出典:barman / PIXTA