寝棺に横たわるレーニンの顔に赤味が・・・

この頃、レーニンはすでに死んでいた。

私は倉茂に伴われて、私どものホテルから程遠からぬクレムリ〔クレムリンという音はロシア語にはない〕の裏庭(広場)に出た。レリギア─オビウム(宗教は阿片なり)という有名な金文字が軒上にされている門をくぐって、私どもはクラスナヤ・プロスチャディ(赤い広場)に出た。

広場の奥行きは千メートルもあるまい。間口は五、六百メートルもあろうか。宮城前の広場に比すれば、その幾分の面積をも持たぬであろう。今の門から前方にイザック(?)の寺の金色まぶしき十字が輝いている。

ギリシア旧教の寺の十字は、十の下に一片横線があり、「キ」となっている。それは何を意味するかを知らない。私どもはレーニン廟を見た。寝棺に仰臥せるレーニンの遺骸はガラスの覆いでおおわれていた。レーニンの顔に赤味をみた。人はそれは作りものだといった。ある人はパラフィンを注射したものだといっていた。

▲レーニンの葬儀を描いた1925年の作品(イサーク・ブロツキー作) 出典:Self-photographed, shakko / Wikimedia Commons

実際、参詣という様相は当時なかったのであった。死せる屍は既に物質に帰したのであるから、正にマテリアリズムの本質上、当然であろう。この頃、AP記者エディ・ギルモアの『ソ連の内幕』を読むと、スターリンの死骸に対してもだいたい同じ状態であることを伝えている。レーニンは人間であって神ではなかった。ところが、スターリンは人間にあらずして神であった。新キリストであった。

しかるに彼を遇するに、やはり「人」というよりは「物」に近きをもってするは、はたしてロシア人の通癖と称しえるであろうか。宗教に対する考え方の変化に基づくものであるか。

ロシア文学を読むと、よくロシア皇帝戴冠式の模様が記録されている。このクレムリ広場で戴冠せる新帝の英姿、神姿が「拝」されるのである。それを拝せんとして、数十万の善男善女がこの広場に参集するのであって、近くはニコラス二世、またその父帝の戴冠式の日においても数十、数百の民衆が混雑のため圧死したということがしばしばあり、あたかもそれは盛儀に不可欠の、また当然の祝福すべき現象であり、忠誠心の発露として上下ともに歓喜されたような書きぶりである。

この広場の大きさと、その門の小なるために、かかる悲惨事は当然に起るべきであり、なぜそれを改めないのかと思ったのであったが、さてそれが昨年の天長節において日本の宮城内に見られたのであった。もし宮内省、警視庁の役人にしてロシア文学の一部を知っていたとすれば、あらかじめ考えられるべき問題であったと信ずるのである。

古き都レニングラードで記念に購入した小杯

私はある日、レニングラードを訪問せんと決心した。レニングラードはいうまでもなく往年のサンクト・ペテルスブルグであり、ペトログラードである。ピョートル大帝はロシア興隆の始祖であるが、相当な欧化主義者であり、ドイツ文化一辺倒であった。

▲ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆 写真:Unknown author / Wikimedia Commons

ペテルスブルグは第一次大戦中ペトログラードとなった。グラードとかゴロドは、シュタットでありシティである。ユーゴ・スラヴィアのベオグラードは「白い都」を意味する。このペトログラードが共産革命直後、レニングラードとなったのである。

レニングラードはネバ河に貫流された美しい都である。モスクワを古い田舎臭いゴート風の都とするならば、レニングラードはやや新しい西欧風の香り高いゴチック、ルネサンス合作の都と言いえるであろう。ネバに近き冬の宮殿は、内部は立派なものだと聞いてはいるが、外観はさほどきれいではない。四角い長方形の二、三階建のものであった。

由来北国の建築物は、外観の美よりも冬の保温に重点を置いて建造される。それはやむなき仕儀でもあろう。それだから仮にゴート風であっても、外観には真のゴート風が現われない、内部にそれを蔵しているわけであろう。

私はモスクワでもレニングラードでも、コミッションヌイ・マガジンに入ってみた。モスクワには多数の絵画があったが、古美術的なものをあまり見受けなかった。レニングラードでは数多くの、さすがに古き都だけあると思われる古美術品が見られた。

ロマノフ家の紋所、すなわち双頭の鷲を付した種々の皿、銀フォーク、スプーン、ナイフ等が売られている。何人が奪い、何人が売物に出したものであるか。しかしこの時代に、このレニングラードでそれらを過当の価額で買いとる人も、おそらく皆無ではなく、将来、欧米人遊客の手に移るであろうと思われた。

このコンミッションヌイ・マガジンに、小さい銀皿と五個の銀製リュムカ(小杯)にペイ・ド・ドウナ(乾杯!)と装飾的に彫刻せる一セットがあった。なおそれにプラーハ製ウォトカ瓶が付属されている。私は好個の記念品として、それを買い求めた。ウォトカでも入手できれば、私は今でもそれで一杯やってみたいと考えている。安焼酎では、その気分が出ないのである。

かくみてくると、旧都モスクワは新都レニングラードに比し、当時、富の程度に差があったことが看取されるのである。ところが時代が一変し、昭和二十九年の現在では新都モスクワにくらべ、旧都レニングラードは著しく寂れてしまったのではなかろうか。

ネバ河畔、冬の宮殿の付近に小公園があり、そこにピョートル大帝の馬上の姿雄々しきブロンズの像がある。それはレニングラードの象徴である。遊び戯れつつある子どもの二、三人が、この銅像の馬の首、馬の尾の付近に乗り跨っていたことを記憶する。帝政華かなりし頃を思い浮かべ、今昔の感なきを得ないのであった。帝冠墜ちたるロマノフ家の姿である。

それにしても、それがかの激烈なる革命騒ぎにも、なんらの破壊を蒙らなかったことと、わが祖国において幾多記念さるべき銅像、石碑の類が革命をみず、単なる「敗戦」ということだけで倒壊されていることを見るにつけ、私は私ども日本人のあまりにも大国民たるの資質に欠くところなきやの悲観を禁じ得ないのである。

▲旧ソ連時代のスモーリヌィ修道院(レニングラード) 写真:秋AKI / PIXTA