バッハとシェーンベルクを中心とする西洋音楽史を講じ、現在は明治学院大学名誉教授、そして指揮者としても活動する樋口隆一氏。その樋口氏の祖父が、2万人のユダヤ人を救った“もう一人の東洋のシンドラー”と呼ばれる樋口季一郎陸軍中将である。

▲樋口季一郎  出典:〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録

この連載では、樋口季一郎が半生を通じて「ロシア独自の侵略観とは何か」を学んでてきた過程を、一見おもしろおかしく綴ってきた記録でもある回想録から、大正十四年(1925)、ポーランド駐在武官としてシベリア経由ワルソーに赴任した期間を抜粋。

国際寝台列車でモスクワに向かい、その車内でロシアと日本の平等の違いについて思索にふけった樋口陸軍中将。今回の日記は、その車内から始まる……。

駅の売店に並ぶ黒ダイヤ、サフィア、水晶など

その後、一日ぐらいの車行で、私どもはタイガー地帯に入ったと思う。その地帯に同名の駅がある。これは阪神球団のニックネームのそれでなく、「密林」を意味する。

なんでも三日間ばかり、我々の汽車はこの地帯を走ったと思う。この辺の機関車が薪を燃料とすることは絶対に必要である。しからざれば、この付近は開発されぬであろう。製材用材木に悩む国も国民もあるこの世の中に、これまたなんと神は愛のみを叫んで平等を主張せぬことよ。

▲エカテリンブルグ(1910年) 写真:Library of Congress / Wikimedia Commons

私どもは某日、ウラル山上にあった。その駅はスウェドロフスクと呼ばれた。昔のエカテリンブルグである。エカテリナ女皇の名を付した小都市である。ウラル山上というわけで、この“尊き”名が付された次第であったろう。ところが革命とともにピョートル(ピーター)がレーニンに、ニコライがウォロシロフになったごとく、この山の頂きの小都市が、革命の闘士スウェドロフの名に因んで、かく改名されたのであった。

満州の大興安嶺もそうであるごとく、大陸の山というものは我々日本人が内地で考えているようなものではない。その山頂の標高は海抜何千メートルあるとしても、またそれを遠方何百里より望見すれば青く高く霞んでいるが、それへ上り行く汽車は何万分の一の勾配を走るものであるから、むしろ日本の平地よりも安易な登攀(とうはん)を営んでいるに過ぎない。

ただウラル・パス上、スウェドロフスク付近においてのみ、わが国における私どもの家の裏の、はたまた付近の小山のごとき様相が見られたに過ぎない。

私はこの駅の停車二、三十分間で、この付近の風物を日本と比較し、親しみを覚えたものであった。数多き駅の売店には、ウラルの黒ダイヤ、トッパーカス、サフィア、水晶など種々の宝石、宝玉の並べられているのを見た。そのなかには飾り物もあったであろう。私は軽井沢で売っていた駅売りそばを思い出した。

某日、私は長途の汚れ深き汽車の旅を終えて、モスクワ東駅に到着した。駅には私の旧友・倉茂少佐が迎えてくれた。倉茂は陸大の同期であり、陸士では私より一期後輩であった。彼は私のハバロフスク時代、ウラジオで五味大佐の補佐官であり、また井染大佐がウェルフネに使いする頃、彼に随伴していた。

日露国交がヨッフェ(ユダヤ人)の来日で急速に進展し、大正十三、四年国交が回復した頃、彼は三宅大佐の補佐官としてドイツよりモスクワに入ったのであった。

私がモスクワに到着して驚いたことは、この大駅にフォードの老いかつほころびたる廃車に近い車が二、三輌がかろうじて客の求めに応じていたことであった。私はロシア革命の実相を見た思いであった。

▲シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線) 出典:Wikimedia Commons

最も強く記憶に残っているモスクワのバザール

サウォイ・ホテルは西欧風の小ぢんまりした美しいホテルであった。モスクワにはボリシャーヤ・ゴスチンニッツアという煉瓦造りの三階建の大旅館があったが、そこはほとんど客がいなかった。

私はその大ホールで一度昼食をとったが、客は私一人だけ。それほど、大正十四年初夏のモスクワは寂しいものであった。

東京の帝国ホテルを、このボリシャーヤ・ゴスチンニッツアでありとすれば、さしずめサウォイは横浜海岸のニューグランド・ホテルと想像すればよいであろう。

サウォイの第一等客はワルソー駐在公使であり、駐ソ代理大使の佐藤尚武氏(後の参議院議長)であった。革命後ロシアを承認した第一の国はおそらく日本ではなかったか。それに続いてポーランドがソベート共和国を承認したかと私は思っている。

▲佐藤尚武(1956年) 写真:国立国会図書館

私を諸処方々案内してくれたのは、もちろん倉茂であった。私の印象としてバザールが最も強く記憶に残っている。バザールはロシア特有の国民的市場であって、昔から有名である。自由主義的商業の盛んであった帝政時代でも、バザールは訪露の客人の印象の対象であった。いわんや物々交換時代においてをやである。

もちろん、私のロシア通過時代は、完全なる戦時共産主義時代が去り、新経済政策の初期であったから、個人商業はきわめて小規模に許容されていたのであるが、国家商業が第一義であって、デパートもまた小規模ながら営業していたのであった。

私は記念のため鼠色の帽子を買ったが、日貨に直して当時の十円ぐらいであり、日本では三十円もしたであろう。これはいかなる関係であったか、革命前の品物が突然出てきたものでもあったろうか。

この国営デパートで買物するものは、私どものごときブルジュアか、ネップマン【ソビエトにおける私的実業家】か、あるいは共産党員の顔役ぐらいであったであろう。小市民はバザールで、自分の欲しいものを自らの携えたる品物と交換する方法をとっていた。

煙草店がきわめて小さく、かつ稀に市中にみられたように記憶する。私は倉茂君の案内で、外務省にメリニコフを訪問した。

あるとき、ホテルのボーイに茶を持って来るよう命じたところ、彼は今そのときでないといって拒絶した。人間は三回食事すればよい、それ以外の胃袋の活動はブルジュアズヌイ・プレドラスートク(ブルジュアの偏見)というのであろうか。

倉茂は、このようなときのためとてベルリンから軽便湯沸器を携行していた。スタンド用の電気口へコードの一方を差し込み、他端の金属棒を水を満たしたコップの内に入れ電気を通ずると、コップ内で湯が沸く仕かけである。我々はこの文化的施設の助けを借りて紅茶を味わうのであった。これは終戦後日本でも流行していることは、読者もご承知の通りである。