岡部直三郎少佐とワルソーで再会
モスクワ、レニングラード付近の滞在は約一週間で、私はワルソーへ出発した。汽車はスモーレンスクを通過した。この地は白ロシアの首府である。ナポレオンのモスクワ征伐も、ヒットラーの対ソ作戦も、必ずこのスモーレンスクが一個の足溜りとなった。レフ・トルストイの『戦争と平和』でも「ス」市が出てくる。ナポレオン退却の場合のこの付近の戦闘は詳細に書かれていたかと思う。
私は車窓より武装厳いかめしき騎兵の一群を見たのである。戦車時代に入った今は、ロシア騎兵の運命はいかがであるか。彼らは実によく馬を駆使する。決して馬に駆使されないのである。ところが我々は昔、騎兵を持っていたが、騎兵を駆使するにあらずして、騎兵に駆使されたものである。換言すれば、馬が人を駆使したものであった。
かつて、私が第三師団参謀長として満州にあった際、某騎兵旅団が三江省の交通不便な地方に駐屯していた。馬は到るところで雑草を食って、自給自足するところに真価がある。しかるに、わが騎兵旅団へは良種の牧草の干したるものを圧搾(あっさく)して、自動車で多量にそこへ送りつけるのである。それは現地の雑草が馬の衛生上不良だというわけである。なおそれに内地から燕麦(えんばく)を追送する。
それでは騎兵というものは実に荷厄介な兵種ということになる。それぐらいならば、適当に装備された歩兵部隊を配置すればよいのであって、それに自動車による兵糧弾薬を満載した輜重(しちょう)を付ければよろしい。第一に滅ぶべきは日本の騎兵であった。もっとも贅沢な兵種は騎兵であった。
私はソ連とポーランド国境駅に到着し、ここで乗り換えすることとなる。なんら地障も目印もない平坦な大平野に横たわる、まさに人為的な国境。この国境には、ところどころ深い濠が掘られ、目標とされていた。それから約千メートルも後退して、それぞれ国境守備隊により造られた鉄条網、散兵壕が点綴(てんてい)されている。四フィート八インチ半の広軌〔世界的の常軌。ロシアのそれは五フィートで超広軌〕は、ここからワルソーへ走っている。
汽車の出発まで二時間もある。私は駅のブッフェットで軽い食事をとった。シンケン(ハム)、シュニッツェル(卵の目玉を添えた子牛のビフテキ)などのメニューを見るにつけ、やはりドイツの近きを感ぜしめられたのであった。
ワルソーへの汽車は出発した。汽車の中で、腕章にタンクを付したる戦車隊の一中尉と乗り合わせた。さかんに怪しげなロシア語で私に話しかけてくる。私にとっては、この男がポーランド人としての最初の友人であった。その後、この男が長きにわたり、ずいぶん私のため貢献してくれたのである。
私はこの日夕刻、ワルソーに到着した。大正九年夏にハバロフスクで一別以来、相見なかった岡部(少佐、私の前任者、後の大将)と久方ぶりに握手を交わした。
※本記事は、樋口季一郎:著『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録』(啓文社:刊)より一部を抜粋編集したものです。