明治21年兵庫県生まれ。陸軍士官学校・陸軍大学卒業後、参謀本部勤務。ウラジオ派遣軍司令部付となり、ウラジオ、ハバロフスクの特務機関に勤務。朝鮮軍参謀を経て大正14年、ポーランド公使館付武官となり、日本軍人として初めてロシア革命後のウクライナなどの視察を許された。昭和12年ハルピン特務機関長となり、同年12月にハルピンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会後に、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人が満州国西部国境で立ち往生する事件が起きる。満州国ははじめ門戸を閉ざしたが、樋口の奔走で受け入れを決定、満鉄の救援列車がユダヤ難民をハルピンに移送した。ユダヤ難民救援の陰の大恩人、樋口の功績は戦後も海外で高く評価されている。昭和18年には北方軍司令官としてアリューシャン方面作戦に参画、アッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦を指導した。昭和45年没。