豊橋市牟呂町にある三ツ山古墳の発掘調査で、東三河最古の横穴式石室が発見された。約20年前の発掘調査では、石室があることわかっていたのですが、それが「竪穴式」なのか「横穴式」なのかが判明しておらず、今回改めて行った発掘調査で横穴式石室の入り口が発見されたのです。

発掘調査の担当学芸員である岩原剛氏は、20年前もこの古墳の発掘調査を担当しており、「謎が謎のままで終わらず、長年の謎が解けて良かった」と語っていました。さらに、この古墳は、周辺の古墳では例を見ない特殊な構造をしていることも判明したという。

▲三ツ山古墳墳丘 出典:豊橋市文化財センター

2022年12月25日、私は愛知県豊橋市にある三ツ山古墳の説明会に行くことにした。

日本全国には16万基の古墳が存在し、愛知県には約3,100基がある。そして豊橋市には、なんと愛知県の4分の1にあたる「741基」の古墳があるのだ(2022年1月現在)。まさに豊橋市は「古墳の街」と言っていいだろう。

説明会の会場は、たくさんの参加者が集まっていて、豊橋市民による関心の高さをひしひしと感じることができた。

今回の記事では、まず古墳時代の日本について簡単な解説をし、次に説明会の様子と三ツ山古墳の特徴を紹介します。さらに、2023年1月21日に同じ豊橋市でおこなわれる古墳イベントのお知らせをします。

▲説明会当日は多くの人が集まった

そもそも古墳とは何か?

3世紀後半〜7世紀の日本は「古墳時代」と言われます。古墳とは簡単にいうと、有力者のお墓です。この時期の有力者は「豪族」と呼ばれ、自分自身の権威を示すために作られたと考えられています。6世紀半ばから、仏教が伝来して火葬文化が定着すると、次第に古墳は作られなくなりました。

古墳時代における日本の状況を説明する文献は日本側にはあまり存在せず、中国側の数少ない資料に頼らざるを得ないのが現状です。中国側の資料としては『魏志倭人伝』などが有名になります。日本側が作成した資料は、8世紀の『古事記』『日本書紀』まで待たねばなりません。712年に『古事記』が、720年に『日本書紀』が完成しました。

ただ『古事記』『日本書紀』は、同じ時期に完成しているにも関わらず『日本書紀』は漢文で、『古事記』は現在の日本語につながる大和言葉で書かれています。そのため『古事記』の完成時期に関しては9世紀の平安時代初期に編纂されたなど、さまざまな指摘があり、研究者のあいだでも意見が分かれている状態です。

日本側の文献が8世紀までない理由は、中国にいる皇帝のような絶対的権力者が存在しなかったことを意味します。古墳時代の日本は「ヤマト政権」と呼ばれており、近畿地方を中心とした各地方に豪族が割拠し、豪族同士がゆるやかな同盟を結ぶことで成立した連合政権でした。現代社会で例えた場合、欧州連合(EU)のような感覚でしょうか。

天皇を中心とした統一国家という日本の原型が形作られたのは、7世紀後半から8世紀前半と言われています。ちょうど『古事記』『日本書紀』の編纂時期と重なり、この時期から「日本」「天皇」という国号や王号が使われはじめました。そのため、古墳時代とは「天皇が日本を統一する以前の時代(3世紀後半〜7世紀)」を意味することになります。

20年かけて“発見”した「横穴式石室」

説明会の冒頭、豊橋市文化財センター所長の岩原剛氏が「三ツ山古墳の発掘調査は年内で終了して埋め戻されるため、今回が古墳の内部構造を公開するラストチャンスになる。ぜひじっくりと見ていただきたい」と挨拶しました。三ツ山古墳は三ツ山公園として再整備されており、来年度末に完成予定とのことです。

▲三ツ山古墳は三ツ山公園として再整備される予定

その後、学芸員の飯塚寿音(ひさね)氏から三ツ山古墳について具体的な説明がありました。

三ツ山古墳は6世紀初めに作られた「前方後円墳」で、すぐ近くに三河湾があり海の近くに位置しています。当時の沿岸部は、近畿(ヤマト政権)と東国を結ぶ港の拠点として栄えたそうです。三ツ山古墳は海上交易によって栄えた豪族の古墳になります。

また、豊橋市がある東三河地方の古墳には、武器や馬具が多く副葬されているため、当時の豪族たちは「軍事面でヤマト政権に貢献していたことが考えられる」とのことでした。

三ツ山古墳には、とてもユニークな特徴があります。三ツ山古墳は「竪穴式」なのか「横穴式」か、今までわからなかったのですが、今回の発掘調査で「横穴式」であることが判明しました。

▲学芸員による三ツ山古墳についての説明

「竪穴式」とは、古墳の形に土を積み終えた段階で、古墳の“頂上”から穴を掘り、遺体を納める部屋(石室)を作る方法です。「竪穴式」の場合、石室に入るための出入り口がないため、遺体を土で埋めてしまうと、石室に再び入ることはできません。そのため「竪穴式」の古墳は、1つの古墳につき1人だけの埋葬になります。

「横穴式」とは、古墳の土を盛る作業と同時に、古墳の“側面”から穴を掘り、石室を作ります。横から穴を掘るため石室への出入り口を設置でき、何回も出入りできるため「追葬」が可能です。追葬とは「同じ古墳の中に複数の遺体を埋葬すること」を意味します。家族など血のつながった人々が一緒に埋葬されたことが考えられます。

しかし、三ツ山古墳は「横穴式」にも関わらず、出入り口を完全に塞いでおり、一度だけの埋葬という「竪穴式」の方法が採用されています。そのため「大変めずらしい構造を持った古墳である」という説明がありました。それ以外にも、新しい技術と古い技術が共存した設計になっている点も、三ツ山古墳を際立たせている特徴のようです。

▲発掘された横穴式石室

こうした背景から、三ツ山古墳は「竪穴式」から「横穴式」への移行期に作られた古墳になるそうです。「現代的な言い方をすると、ガラケーからスマホに変わる過渡期のような時代に作られた古墳」というわかりやすい表現で解説してくれました。