時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。

【前回までのあらすじ】
難しい地名をカメラに収めることが目的だったのに、いざ巡業へ出ると練習と雑用に追われそれどころではなくなってしまったアンドレ。プロレスの練習は、何をやっても人並み外れていた彼にとっても想像以上に厳しいものだった。そして日は暮れ、その日の興行がスタートする――。

ブルーシートに座っていたぼくがセコンドに

興行が始まる直前、コロリと太った縦じまのポロシャツを着ているおじさんから「そこのデカいの、セコンドにつけ」といわれる。昨日の楢葉でレフェリーをやっていた人だっけ。それにしても、プロレスラーより大きいなあ、横だけは。

セコンドって、ボクシングとかで水をやったり指示を出したりするあれかと思っていたら、プロレスの場合は違った。選手が入場する時に着ていたコスチュームを、脱いだあとに受け取って控室へ運び、場外乱闘になったらお客さんが巻き込まれないよう「危ないですから下がってくださーい!」と声をあげながら闘っている選手との壁になる。

昨日はブルーシートに座って見ていたぼくが、その24時間後には先輩から支給されたジャージーを着てセコンドについている。それこそ“ベルばら”も顔負けの劇的な展開ではないか。

「はー、でっけえ若い子がいるわなー」

客席(イスがないのだから席と言っていいのかどうか)に背を向けてリング上を見つめていると、そんな声が聞こえてくる。やっぱりぼくは、どこででも目立ってしまう。

そのうち「おい、図体がデカいの、見えないぞ。しゃがめ!」と怒った口調で言われてしまった。すぐさま先輩の練習生が飛んできてぼくの頭をはたきながら「バカ!! お客さんの邪魔になったらタスケさんに蹴り殺されるぞ!」と無理やり体勢を低くさせた。

ぼくは肩をすくめて、リング上を見るようにした。それ以外にも、試合が進むごとにセコンドがやるべきことを一つずつ覚えていった。

この日も運命さんはセミファイナルに出場し、同じくこの日も試合前に演歌を熱唱した徳二郎さんと一騎打ちで闘った。そしてメインイベントにはタスケさんが登場したのだが、ぼくは相手のいかつい3人組に目がいってしまう。

その中に、飛び抜けて鋭い眼光を放つ人がいた。年齢は、まだ二十代半ばのようだったが、どこか不良っぽい不敵な顔つきでタスケさんのチームをにらんでいる。

そして試合が始まるやタスケさんに襲いかかり、ものすごい衝撃音が響くキックを繰り出していった。まさに獲物へと襲いかかる猛獣の姿そのもの。前の試合までは場面によって笑いが起こるほど楽しい雰囲気だったのが一瞬にして変わり、地べたに座ったお客さんたちはエキサイトする。

その中へ6人がなだれ込んでいき、場外乱闘となった。ぼくはとっさに「危ない!」と叫んでいた。ブルーシートには、機敏に動いてよけられなさそうなお年寄りも座っていたからだ。

でも、よく見るとシートに投げられ、倒れる選手はそういうお客さんへぶつからないように飛んでいく。闘いながら、周りを把握しているようだ。

いつの間にかタスケさんは一度控室に戻り、自分の何倍もの高さを誇る脚立を持ってきていた。それをリング内へ入れて立てると、頂上から飛ぶつもりなのか、登り始める。

ところが相手チームに脚立を倒されてしまい、そのまま真っ逆さまに場外へ転落! ビックリしたぼくが駆け寄ると、タスケさんは硬い床にうずくまり「うーん…うーん…おおぉ!」と唸っている。

これは試合どころじゃないぞとこっちがあせってしまうぐらいだったが、タスケさんはしばらくすると自力で立ち上がり、再びリングの中へ入っていった。そして最後は、コーナーのてっぺんから飛ぶ技で相手の一人をしとめて3カウント奪取。

この静かな田舎町で、ここまで声を張りあげることなどあっただろうかと思うほどに、お客さんが「タスケ! タスケ!」とコールしている。うわあ…プロレスって、こんなに盛り上がるものなのか。

勝ち名乗りをあげるタスケさんへ、目つきの鋭い人が近づき、そして右手を差し出す。一瞬、ちゅうちょしながら「握っても大丈夫かな?」と言わんばかりに四方を向いてから握手に応じた。

その直後、タスケさんは急所を蹴られ、悶絶した。相手の3人は「バーカ、まただまされやがったな!」と言い放ち、あざ笑うかのように帰っていった。

“また”ということは、タスケさんがこういう目に遭うのは一度や二度ではないのか。最初にやられた時点で気をつければ、だまされずに済むはずだけどなあ。

何度もだまされて精神的ダメージが大きいのか、タスケさんはマイクを持って「もう…わたくしはダメなんですかねえ」などとこぼし始めた。すると、客席のあちこちから「そんなことないよ!」「気にすんなよ!」「諦めんな!」といった励ましの声が飛んできた。

それに力づけられたか、タスケさんは一転。「そうだよねえ! よーし、こうなったら皆さんが一人でもいる限り、東北プロレスは永遠に不滅だーっ!!」と叫びながら、右のコブシを突きあげると、場内の興奮は最高潮に達した。