今年1月、日本相撲協会を退職し、芸能界へ転身することを発表した豊ノ島大樹氏。タレントとして活動を開始してから、その愛らしい表情がテレビ画面に映し出され、大相撲時代のエピソードなどを交えたトークがラジオから聞こえてくる。
力士時代は相撲巧者の呼び声も高く、最高位は東関脇まで登りつめた。現在もさまざまな現場で自身の持ち味を発揮し、活躍の場はさらに広まりつつある。新たな一歩を踏み出したばかりの豊ノ島に、18年にわたり戦い続けてきた力士人生や乗り越えてきた「土壇場」を振り返ってもらい、今後のビジョンも聞いてみた。
幼少時に見た大一番が力士を目指すきっかけ
「もともとサッカー少年だったんです。小学1年生でサッカーを、少し遅れて相撲も始めました。その頃からテレビでも見るようになって、当時、テレビ画面の中で活躍していたのが貴花田(後の貴乃花)。特に千代の富士関を倒した相撲が強く印象に残ったんです」
1991年夏場所初日、当時19歳の貴花田が横綱・千代の富士を破り、場所中に大横綱は現役引退を発表。全国の相撲ファンに世代交代を印象付け、大相撲が新時代へと向かう歴史的なターニングポイントなった大一番が、梶原大樹少年、現豊ノ島にも大きな影響を及ぼすことになった。
「まだ小さかったんで、両力士や相撲界の背景とかはわかっていなかったのですが、とにかく強烈な衝撃を受けました。今まで強かった千代の富士が若い力士に敗れ、直後に引退した。そのときに目標ができたんです。じゃあ、今度は僕が貴花田に勝ちたい。貴花田を倒して引退させるんだ、と」
「僕はお調子者なんで」と照れながら、力士を志したきっかけをそう語った。親に目標を伝えると、励まされ、背中を押す言葉を投げかけられたそうで、ここから将来への道がつながっていくことに。その後は、身長が思うように伸びないなどの悩みとも向き合いながら、成長を遂げていく。
「中学校では全国大会で優勝することができ、高校まで相撲を続けていったなかで、最高峰である大相撲の世界で“自分の力を試したい”っていう思いが強くなりましたね。横綱になりたいとか、番付の位置など、具体的な目標は特になかったのですが、どこまでやれるのかという気持ちが強かったです。
それに、ずっと力士になると言い続けていたこともあり、プロにならなきゃいけないと自分の言葉が重圧にもなっていたことも正直なところです。それで“行くからにはやってやろう”とも思いました」
2002年1月、時津風部屋に入門。晴れて大相撲の世界に身を投じることとなった豊ノ島だが、いきなり洗礼を浴びる。
「入門して一番最初に、ある幕下上位の人と稽古したんです。立ち合いでバーンと当たった瞬間、一気に羽目板(稽古場の壁)まで吹っ飛ばされました。自分も一応、自信があってこの世界に入ったんですけど、それまで相撲をとってきたなかではそんな経験したことがなかったので“なんだコレ!?”と思いました。
そして、それ以上に、その人が関取ではないことに衝撃を受けたんです。十両や幕内ではもっと強い力士がいる、これはとんでもないとこに入ったなと痛感しました」
それでも、少年時代から相撲に打ち込み築いてきた自信が揺らぐことはあっても、打ち砕かれることはなかった。豊ノ島はその経験を機に、日々の稽古での明確な目標と自らの実力の指標を定める。
「この人に勝たないと上に行けることはないんだと心に決め、その力士に勝つことを目指しました。それからしばらくは勝てない日が続いたんですけど、少しずつですが勝てるようになり、半年、1年後にはさらに勝つ回数が増え、勝敗数が並ぶようになりました。そのあとも僕の負けが減っていきながら、2年過ぎる頃には僕のほうが良くなっていったんです」