現役時代に最も負けたくなかったライバル

入門直後、まるで歯が立たなかった先輩力士を稽古で上回るようになった頃、豊ノ島は念願の十両昇進を果たす。十両でも2場所連続で勝ち越すなど、順調に番付を上げていき、入門から4年が過ぎると幕の内に定着、その実力がさらに磨かれることとなった。

「小さい力士は小さいなりの戦い方がある」。今回のインタビューではそんな言葉も聞かれた。身長は170㎝に満たないながらも、関取として存在感を示し続けることができた自身の武器がなんであったかを問うと、技巧派と称された元力士からは意外な答えが返ってきた。

「技術と言うよりも相撲勘でしょうか……。相撲の取り組みのなかで、とっさに出る動きの質が他の力士よりも長けているんじゃないかと思っていました。また、自分の技術などを他の人に伝えても、理解してもらえないことが多かったですね。自分では結構、あっさりできちゃう技、動きなどを他の力士に教えても“それ、難しいよ”って」

また、豊ノ島が重視したのは技術を突き詰めることではなく、自身の気持ちを高め、維持していくことだったと語る。

「そこまで研究熱心でもなかったですね。他の人たちのように、例えば自分の癖や立ち合いなどを細かく修正したり、そのために負けたときのビデオを擦り切れるほど見るとかはほとんどしなかったです。自分の勝ったときの相撲しか見ませんでした。“いい相撲だな、明日もこの調子で頑張ろう”という感じで」

根っからの天才肌の才能は、より開花していく。2007年初場所では12勝を挙げ、幕内で初めての2桁勝利を記録。優勝争いにも加わり敢闘賞、技能賞を初めて受賞した。その後も勝ち越しや2桁白星の成績も増えていくと、2010年九州場所では力士生活で最高の成績を収めることとなり、その場所最後の取り組みは最も印象に残る一番だと振り返っている。本割を14勝1敗で終え、迎えた横綱・白鵬との優勝決定戦だ。

「白鵬関との優勝決定戦。負けはしたものの、あの一番が最も思い出に残る相撲ですね。あそこまで行けたのがうれしかったです。相撲界では三賞はありますけど、準優勝という記録はないですよね。やっぱり優勝しか結果として残らないじゃないですか。それでも、あの場所の成績はいわゆる“優勝に準ずる成績”であり、いまだにいろんな人が覚えていてくれています。記録よりも記憶に残る一番と言えますね。敗れた相撲ではあるけど、印象に残っています」

さらに、現役時代に最も負けたくなかった相手の名前を聞くと、学生時より鎬(しのぎ)を削ってきたという力士の名前が挙がった。

「琴奨菊ですね。中学から知っていますし、プロに入ってからも小さなことから競い合っていましたね。入門後、スタートは僕のほうが調子がよかった。その後、琴奨菊がグッと伸びてきて。だけど十両は僕のほうが先で、幕内に上がってから先に大関戦やったのは向こう。それでも、金星や三賞を取ったのは僕が先だった。どれもちょっとのこと、細かいことだったけど、先に結果を残されるのが悔しかった。それくらい、負けたくない相手でした」

同学年、角界入り同期の盟友とは優勝争いも演じた。2016年初場所、琴奨菊が幕の内最高優勝を成し遂げる。日本出身力士が久しぶりに賜杯を手にすることとなり、豊ノ島も終盤まで優勝を狙える位置につけていたこの場所での、興味深いエピソードを披露してくれた。

「琴奨菊は14勝1敗で優勝したんですけど、その1敗は僕が13日目につけたんです。番付上、本来なら対戦は組まれないはずだったんですけど。そしてたまたま、その取り組みの日が僕の親父を国技館に呼んでいた日。親父は今も健在なんですけど体調を崩していて、その日の相撲を最後に現地での観戦はしていないんです。

相撲人生で僕の最初の指導者は親父であり、最大の理解者なんです。琴奨菊のことも昔からよく知っているので、彼との取り組みを見ることができて本当に喜んでいましたよ」

「琴奨菊の優勝が決まったときには“おめでとう”と祝福しました」と笑顔を浮かべ振り返る豊ノ島。最高峰の舞台で、最高のライバルを相手に競い合うなど、まさに力士として脂が乗り切っていた。

しかしこの年、力士人生での「土壇場」が突然、訪れる。

▲あの怪我がこれまでで一番大きな土壇場でした