若者や女性に不人気な親父ギャグ。それでも思いついたら言いたくなってしまい、場を凍りつかせた人もいるのではないでしょうか? そのような経験から親父ギャグを使うのが気がひけるという人でも、ひとつの言葉で2つの意味を持たせるような日本語表現をすると考えてみてください。日本語の専門家である山口謠司氏が、“教養”としての親父ギャグを紹介します。
※本記事は、山口謠司:著『頭の中を「言葉」にしてうまく伝える。』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
親父ギャグは平安時代から続く日本人の性
ちょっとしたおもしろ話をしておきます。使わないとしても、知識として知っておいてほしいことです。
布団が、ふっとんだ。
隣の家に壁ができたよ。へえー(塀)。
小さい頃に、一度は口にしたことのあるダジャレ、いわゆる親父ギャグです。
こんな言い回しはベタすぎるにしても、ちょっとしたギャグはピリリとしたスパイスになりますし、ちょっと優雅な言葉遊びでもあったりするので、嫌味でない程度に教養を披露できるところでもあるのです。
実は、親父ギャグは平安時代から存在していました。
古典的な和歌は親父ギャグのオンパレードと言っても差し支えないほどです。
趣ある言葉に裏の意味が引っ掛けられていて、その洒脱な遊び心には思わず膝を叩きたくなります。
たとえば、平安時代前期に編纂された勅撰和歌集である『古今和歌集』には、こんな歌が収められています。
心から花のしづくにそほちつつ憂く干ずとのみ鳥の鳴くらむ
「憂く干ず」という言葉に、ある鳥の名前が隠されています。なんの鳥か、わかりますか? 音感から想像できるのではないでしょうか。
そうです、鶯(ウグイス)です。
心までも花の雫に濡れそぼってしまい「ちっとも乾かず憂鬱だなあ」と鳥が鳴いているようだ、と、春の長雨のしっとりとした情景を歌った歌です。
ちっとも乾かず憂鬱だなあ、と鳴くのは「ホーホケキョ」の鶯。
なぜなら、「乾かず憂鬱」で「憂く干す」=「ウグイス」だから。しっとりと情緒的な和歌の中に埋め込まれた親父ギャグです。
あるいは、百人一首のひとつに選ばれているこんな句もあります。
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり
私の庵は、都の東南方向にあって、こんなにのんびり住んでいます。ところが、人々は、世を「憂し」としての「宇治」山暮らしだなどと言うのです。
どこに親父ギャグが潜んでいるか、お気づきでしょう。「憂し」と「宇治」という地名をかけているのです。こんな世の中を憂しとしているから、宇治山に住んでいるんだな、と人々が噂をしている、と詠んだ歌です。
もうひとつ、「しかぞ住む」は「このように住んでいる」という意味ですが、それに加えて「鹿なんぞも住んでいるのだ」ということをひっかけている、という解釈も可能です。
「鹿なんぞもいる、そのような山暮らし」で「しかぞ住む」なわけです。
ベタな親父ギャグでありながら、行間にしっかりと深みが増すような「洒脱な言葉遊び」だと思いませんか。余分なものを削ぎ落としているだけでなく、短い言葉にいろいろな意味合いを含ませて、読み手の想像力に委ねる。そこに情緒や余韻を感じ取ることもできます。