東日本大震災から12年が経ちました。震災の傷跡は今も多くの方々の生活、そして心に残ったままです。

福島第一原子力発電所の事故は世界中を震撼させ、収束に向けた道筋が見えない状況が続いています。当時、福島第一原発の事故対応にあたった吉田昌郎所長は亡くなる前、同僚にこのような手紙を送っていました。

「俺たちは自然の力をなめていた。自然を支配したつもりでいた。慢心だ」

「3.11」を通じて私たちは、自然の恐ろしさと同時に、どこまでも自然を支配しようとする人間の傲慢さを改めて思い知らされました。今回の記事では人間と自然の関係性、また技術について、哲学的な視点から考えたいと思います。

▲人間が科学技術を生み出したのではない!? イメージ:sirokuma45 / PIXTA

古代ギリシア人と古来から続く日本人の自然観

日本語の「自然」には、2つの意味があります。

「人工と自然」「人為的と自然的」という対比が使われますが、人間の手が加わったものが「人工、人為的」ならば、人間が関わっていない領域(草や川、山など)が「自然」ということになります。これが1つめの意味です。

2つめとして「そう考えるのが自然である」「それが自然な成り行きである」という使い方です。ここでは「本来のあるべき姿」「自ずから正しい姿になる」といった意味になります。古来から「自然」は、2つめの意味として長く使われてきました。

ギリシア語では「自然」のことを「フュシス」と言います。「フュエスタイ」という動詞から派生した言葉(名詞)になります。「フュエスタイ」には「生える、成る、生成」といった意味があり、植物的な成長を表現する動詞になります。

古代ギリシアの人々は、世界に存在するあらゆるもの(万物)の内側には、生命のようなエネルギーが内蔵されていると考えました。そのエネルギーによって、自ずから生成して消滅していくのが、世界であり自然(フュシス)であると考えていたのです。

そして、古代ギリシア人の自然観と同じような感覚を、古代の日本人も持っていました。『古事記』の冒頭部に高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神皇産霊神(かみむすひのかみ)という神様の名前が出てきます。

哲学者の木田元氏によると、この神様の名前に含まれている「産霊(ムスヒ)」という言葉と、ギリシア語の「フュシス」はほとんど同じ意味になるそうです。「ムスヒ」の「ムス」は「苔ムス、草ムス」として使われ、植物の生成を意味する言葉(動詞)になります。「ムスヒ」の「ヒ」は霊力、つまり万物に宿るエネルギーを意味するからです。

さらに木田氏は、丸山眞男を引用しながら続けます。『古事記』のなかには「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成る」という植物的な表現をした文章があります。葦牙のような成長を支配している力が「ムスヒ」であり、植物などの自然物だけではなく、人間や社会、神々を含む全てのもの(万物)の生成を支配している、と古代の日本人は考えました。

「万物は常に生きており、生成と消滅を繰り返す」という自然観は、農耕民族として長く過ごしてきた日本人特有の思想です。古代ギリシア人と日本人が同じような思想を持っていたことは、とても驚くべきことだと思います。

古代ギリシアの代表的な哲学者であるヘラクレイトスは「世界は流転(生成)する」という表現をしています。「世界のありとあらゆるもの(万物)は絶えず変化している」を意味し、まさに古代ギリシアの自然観から派生した言葉になります。

そしてヘラクレイトスは「人間は偉大なる自然の一部に過ぎない小さな存在である」とし、自然の秩序に耳を傾けながら自然に従って生きることが、人間の本来的な生き方であるとしたのです。ヘラクレイトスの言葉は、どこか日本人にもしっくりと馴染むような感覚があります。