人類は科学技術をコントロールできるのか?
古来の日本人にとって技術は「自然からもたらされる恩恵」と考えられていました。大地にそびえる木も、自然からの「プレゼント」。木を切り倒すときには感謝と祈りを捧げ、木の特性を最大限に生かしながら、柱や屋根をこしらえ雨風をしのいできました。
養老孟司氏は「手入れ」という日本独特の文化を指摘します。里山に暮らしていた日本人は自然の成長(生成)を考慮しながら、生活に必要な最低限の資源を自然から確保したため、自然を根本から破壊するような行為はしませんでした。自然と共存する生活、すでにSDGsを実践していたことになります。
日本古来の生活は自然に逆らい、自然を枯渇させるような技術ではありませんでした。ところがヨーロッパ文明のなかで、技術は自然に逆らい、肥大化するようになります。
イギリスで発生した産業革命によって、機械化(技術化)された社会は、大気や水質汚染などの環境問題を引き起こしました。ヨーロッパが生んだ、自然と対立する技術は世界中に拡大します。日本も明治維新によって、ヨーロッパ文明を受け入れています。世界史から見た明治維新は、日本の産業革命を意味するのです。
たしかに科学技術のおかげで、人類はさまざまなことを可能にしてきました。宇宙にたどり着いたり、試験管のなかで人間を誕生させたり、遺伝子を組み替えて新しい食物を生み出すなど……かつては神にしかできないと思われていたことが、人類にもできるようになったのです。
しかしその一方、核の分裂によって巨大なエネルギーを引き出した人類は、一瞬のうちに地球上の生物を絶滅させる力も手に入れます。東日本大震災による原発事故によって、日本の半分が住めない土地になった可能性だってあったのです。
高度に発達した科学技術は、地球を破壊する事態を引き起こしますが、私たちはどこかで楽観的に考えている節があります。人類こそが科学技術を生み出したのだから、人間は技術をコントロールできるはずだと思っているからです。現在のさまざまな環境問題もいずれ新しい技術が開発され、克服できるだろうという前向きな展望を持っています。
先ほども引用した木田元氏は、技術に対する楽観的な見方に疑問を呈しています。人類の発達過程を取り上げながら「人間が技術を生み出したのではなく、逆に技術が人間を作ったのではないか」と言うのです。
最初の人類は火をおこし、衣服を整え、食料を保存する方法など、さまざまな技術を少しずつ編み出しています。こうした技術は人類が最初から生み出したのではない、と最近の科学史は指摘しています。自然のなかで偶然に発見した者が生活に取り入れ、自然を応用する過程で生まれた技術が人類を進化させたそうです。
「狩猟採集」というその日暮らしを送っていた人類は、移動を繰り返すなかで、熱帯・亜熱帯地域へ偶然にも進出します。この地域では河川の氾濫など自然の変動が激しいため、明日を生きるために今日から準備をしなくてはいけません。このときに時間意識(過去・現在・未来)が芽生えたことで、人類は言葉を覚え、また農業(定住生活)も可能になったのです。
このような発達過程を経て、人類(私たち)は「ホモ・サピエンス」に進化しました。人間が技術を生み出したのではなく、あくまでも自然や技術が人間を作り出したのです。
本来の技術は人間を幸福にするために存在しています。しかし現代社会を見ると、常にお金によって振り回され、挙句にはAI(人口知能)が人間から労働を奪っているのが実態です。人類が技術をコントロールしているとはお世辞にも言えません。
不幸の原因は「人間は技術や自然を支配できる」という、傲慢な心にあるのではないでしょうか。「人間は自然の一部であり、自然に寄り添いながら生きる」という、古来の日本人や古代ギリシア人が育んだ自然観(視点)から、現代社会を改めて考え直す必要性を感じています。