戦国時代の合戦は小競り合いがメイン

今川家は、永禄12(1569)年に完全滅亡します。今川氏真は桶狭間以降の劣勢を回復することができず、ジリジリと国土のすべてを奪われました。原因は一言で言えば、国防努力をしなかったからです。それでいて、下手に外交に頼りました。

今川亡国の危機に、武田信玄のあまりに露骨な裏切りと侵略に、北条は武田と手切れをし、徳川・上杉と組みました。川中島で五度も戦った上杉はもちろん、北条だって、武田が旧今川領を併呑して強くなりすぎることなど望まないのです。氏真としては、そうした大国の思惑を利用したともいえます。

しかし、しょせんは猿知恵です。自分の国を自分で守ろうとしない国は見捨てられるものです。

有名な「敵に塩を送る」の故事は、このときに生まれました。北条と今川は、武田に経済封鎖を仕掛けます。山国の甲斐に塩を送らないようにしたのです。これに同盟国の上杉謙信が「戦は弓矢でするもの。民を苦しめるものではない」などと、ワケのわからないことを言い出し、甲斐に塩を送ります。

にわかには信じがたい話ですが、北条・今川の経済封鎖が失敗し、上杉・武田の関係が急速に好転するのは歴史の事実です。また、上杉・北条同盟もあまりに利害が錯綜しすぎて機能せず、やがて北条は武田とヨリを戻します。

誰も今川の運命に目を向ける者はいません。氏真は、北条氏康、ついで徳川家康に憐みのごとく居候させてもらうこととなります。それなりに世話になった今川家を家康が“悪魔化”しても、それはそれでお互いさまのようなところもあるのです。

さて、今川のくびきを脱した徳川ですが、今度は武田信玄の脅威に接しなければなりません。最初は織徳同盟と武田家は友好関係にあったのですが、徳川と武田が今川侵攻の際に敵対し、京都の信長が包囲されている形勢を見て、信玄は織田家との友誼を破棄します。

家康の領土の三河・遠江は東海道、信玄の新領土の駿河こそ東海道ですが、家康から見れば本拠地の甲斐・信濃は北にあたります。信玄は国境侵犯を繰り返し、三河・遠江の北部を削り取っていきます。「神君は三方原以外無敗」というのが大噓だとわかるでしょうか。国境紛争では連戦連敗なのです。ただ、家康の言い分だと「直接乗り出していった戦いでは一敗」ということなのかもしれません。

ここで重要なのは、戦国時代の戦いが間接侵略(=調略+プロパガンダ)だということです。この当時の信玄と家康だと、明らかに信玄のほうに勢力があります。国境の土豪は身の安全を図るために、戦う前に信玄側になびいていくのです。

合戦とは「最後のセレモニー」です。合戦そのもので大将首が獲られ、家そのものが傾いた例など桶狭間くらいで、例外中の例外です。

ついでに言うと、日本人の合戦イメージは「騎馬武者が刀を振るって斬りあう」でしょうが、そんな戦いは八幡原の戦い、ただ一つです。八幡原の戦いとは、第四回川中島の戦いのことで、上杉謙信が武田信玄めがけて切り込んだという有名な戦いです。

謙信と信玄の直接対決は、軍事史家の海上知明先生によれば「検証すればするほど、あったとしか思えない」そうです。詳しい検証は、海上知明『信玄の戦争』(ベスト新書)を参照してください。

▲川中島古戦場 謙信と信玄像 写真:たき / PIXTA

とは言うものの、江戸時代の人たちからして、戦国時代のすべての戦いが八幡原の戦いのようだったと思い込んでしまっています。大軍と大軍が、弓鉄砲を射かけ、槍隊が突撃し、騎馬武者が斬りあう。じつに絵になります。

それにくらべて調略は地味です。地元の市長を籠絡するのに買収できなかった場合に、市長選で対抗馬をたててそいつを落選させる、みたいな感覚で小競り合いをやります。甲州砂金で言うことをきかなかったら、軍隊で攻めていって乗っ取るわけです。なんのドラマもありはしません。

結局、戦国時代の合戦の実態が、江戸時代以降わからなくなったのです。戦国史研究が盛んになるのは敗戦後のことであり、特に平成になってからは多くの通説が書き換えられています。

長篠の戦いで信長が選んだ戦法は超消極策だった!? 

話を三方原の戦い後の家康に戻しましょう。

信玄は三方原の戦いで家康を蹴散らし、信長を目指して西進しました。しかし、途中で病に倒れます。継いだのは息子の勝頼ですが、徳川への侵攻はますます激しくなるばかりです。徳川方の城が次々と落とされます。連戦連敗の苦境で国境の土豪たちの離反が激しく、家康は信長に助けを求めました。しかし、信長は容易に首を縦に振らず、業を煮やした家康が「ならば、武田に降伏する他なし」と弱者の恫喝を行います。

そこで仕方なく信長が援軍をよこし、起こったのが長篠の戦いです。

教科書では「信長の三千丁の鉄砲三段撃ちの前に武田の騎馬隊は次々と玉砕した」と書かれ、あげくは「信長は鉄砲の力によって戦国乱世を統一した」とまで持ち上げられるのですが、こうした評価は現在否定されています。

信長のとった作戦は野戦築城です。決戦場になる設楽原一帯の小高い丘の上に馬防柵をつくり、鉄砲で構えていれば武田も攻めてはこられないから負けることはないだろう、武田は遠征軍だからあきらめて帰るだろう、という超消極策です。

▲長篠合戦図屏風 出典:長浜市立長浜城歴史博物館蔵

ところが、何を血迷ったか、武田軍が攻めてきました。

直前に徳川軍が、勝頼が背にしている鳶ヶ巣の武田方の砦を落とし、挟み撃ちのかたちにします。勝頼が決戦せざるをえない状況に追い込もうとする作戦です。それでも北に逃げればいいのですが、勝頼は決戦を選んでしまいました。

織田・徳川連合軍が鉄砲を射かけても、武田軍だって盾で防ぎます。大混戦状態のなかで、タマタマ、徳川方の鉄砲玉がまぐれ当たりで武田四天王と呼ばれた重臣の一人である山県昌景に当たって戦死、武田軍に雪崩現象が起きました。武田軍に大量の死者が出たのは、この際の追撃戦です。

※本記事は、倉山満:著『バカよさらば -プロパガンダで読み解く日本の真実-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。