井伊家に受け継がれた武田の「赤備え」

武田家を滅ぼした信長は、残存する武田一族を執拗に探し出し、皆殺しにしました。甲府に入城した織田軍は、武田家の菩提寺である恵林寺を包囲します。武田家の残党が逃げ込んだためです。恵林寺が残党の引き渡しを拒否すると、信長は家臣に命じて、寺を焼き討ちにしました。このとき、多くの僧侶や民衆が犠牲になったと言われています。

平安時代の武将・平清盛による過ちを教訓にしたのでしょう。ライバルであった源義朝の子ども(頼朝と義経)を、平清盛は幼いからと殺しませんでした。しかし、結果として、平家は頼朝と義経によって滅ぼされてしまいます。残酷かもしれませんが、信長の行動は「歴史の教訓」に従ったのです。家康も豊臣家を滅ぼすにあたって、秀吉の孫まで処刑しています。

本能寺の変で信長が死んだあと、甲斐国は家康の領土となりました。このとき、家康は武田家を保護しようとします。武田家の家臣たちを吸収して、徳川軍の強化を図ろうとしたためです。

しかし、この計画はうまくいきませんでした。穴山梅雪の子に武田家を託そうとしましたが、この子は若くして死んでしまいます。側室の候補として、家康は武田家遺臣(秋山虎康)の娘・お都摩(下山殿)を迎え入れ、この下山殿に産ませたのが五男の万千代です。

この万千代が元服すると、家康は「武田信吉」と名乗らせます。この信吉に水戸藩を預け、武田家遺臣を一気に吸収する計画でしたが、この信吉も21歳の若さで死んでしまいました。

そのため、家康は「徳川四天王」の井伊直政に武田家の遺臣を預けます。今回のドラマでは板垣李光人さんが演じていますが、赤一色の鎧兜で軍団を統一するという「赤備え」は、武田家から名門・井伊家に受け継がれたのです。

▲彦根城博物館に展示される井伊の赤備え 写真:白熊 / PIXTA

ひっそりと生き残った武田家

断絶したと思われた武田家ですが、生来から盲目のため出家していた信玄の次男・龍宝の孫が生き残っていました。本来ならば僧侶は妻を持てないのですが、龍宝は例外だったようです。

龍宝は殺されてしまいますが、江戸幕府の判断によって孫の信道は殺されることなく伊豆の流罪で済みました。信道は伊豆大島で亡くなりますが、その子どもに信正がいました。信正も伊豆に長く閉じ込められますが、徳川家綱の時代である寛文3年(1663)、ようやく恩赦があり江戸に戻ります。信正は70歳になっていました。

この信正を引き取ったのが武田家の遺臣であり、徳川家に仕えていた内藤帯刀になります。帯刀は武田家の血を絶やしてはならないと、なんと17歳になる自分の娘を70歳になる信正の妻にしたのです。そしてニ人には男子が生まれます。その子孫たちが旗本として採用され、のちに高家となりました。この高家・武田家の子孫は現在も続いています。

▲景徳院に残る武田勝頼公の墓 写真:たき / PIXTA

信玄が長生きしていれば、天下統一を果たせたとも言われる武田家ですが、結果として信長と家康に滅ぼされてしまいます。勝頼が相手したのは戦国きっての天才・織田信長です。秀吉や家康でも、信長の存命中は何もできませんでした。信玄ですら勝てるかわからない相手ではありますが、やはり「父を超えること」は難しかったと言えるでしょう。

また、勝頼は正式な信玄の後継者ではなかったため、家臣たちからの忠誠心が薄かった事情も重なりました。武田家の重鎮だった穴山梅雪も、最終的には信長や家康に寝返ったことからもわかります。

武田家を滅亡に導いてしまった勝頼は、やはり信玄に匹敵する器ではなかったというのが、歴史的な評価でしょう。生まれたタイミングが悪すぎたという見方もできますが、さまざまな不運が重なった勝頼の生涯を見ていくと、戦国で名を馳せるためには、つくづく運が重要であることを痛感します。