医師だけど患者と会うことのない病理医。目立つとは言えないポジションですが、不可欠な存在です。病理医とは「病理解剖」「組織診断」「細胞診断」をする医師で、病理解剖をたくさんしている病院は、診療レベルが高いといわれています。そんな病理医という職業を続けてきた榎木英介氏が、病理医という仕事について語ってくれました。

※本記事は、榎木英介:著『フリーランス病理医はつらいよ』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

病理医は患者と会う機会が少ない

病理医と他の科の医師の違いはいくつもありますが、一番わかりやすいのは服装です。病理医は、病理外来のときを除いて患者さんに会うことが基本的にはありません。それもあってか、白衣というものを着ない人も多いのです。

もちろん、臓器を切って顕微鏡で見る部位を取り出す「切り出し」のときは、服が汚れるのを防ぐために白衣になりますが、そうでないときは全く着ない人もいます。

反対にユニフォームのように常に白衣姿という病理医もおり、ある病院で血液が付着している白衣を着て院内を歩いて、患者さんに不快だと投書された医師がいました。名指しはされていませんし、患者さんもその医師の専門が何かを知らなかったはずですが、私は個人的に“それは病理医かもな”と思ったものです。以来、院内を白衣で歩くことを私自身は自粛しています。

また、病理医の仕事は他の科からの依頼で行われるので、自分の意思で“仕事”を増やすことができません。昨今、成果主義の導入などで病院の売り上げが厳しく問われるなか、自分の意志で売り上げに貢献できない病理医の院内における立場は、ややもすると弱くなりがち。その点も他の科の医師と違うところです。

そして、なにより大きな違いとして、病理医は解剖を行う医師であることです。人の命を救うこと、苦痛を取り除くことに特化しているはずの病院という存在の中で、直接は命を救うことも苦痛を取り除くこともできない病理解剖。未来を見ている病院で、唯一過去を見続ける空間といえます。

▲病理医は患者と会う機会が少ない イメージ: buritora / PIXTA 

実際、医学部のある同期から「俺たちは生きた患者さんを扱ってるんだ! オマエら病理医とは違うんだ!」と力説されたことがあります。

しかし、病理医だって亡くなった患者さんのことばかり考えているわけではなく、仕事の大半は存命の患者さんの標本を診断しているわけです。“そんなこと言われましても……”と思うしかありません。

とはいえ、亡くなった患者さんを診る仕事が多いのが病理医の大きな特徴であることは事実。しかもそれは、診療報酬という意味ではなんらプラスになりません。病院の売り上げにも貢献しないわけですから、医療現場に疎い経営コンサルタントなどからしたら「解剖いらなくね?」となるわけです。

しかし、さすがにそれはひどい話だろうと、日本病理学会はなんとか診療報酬上に解剖を位置づけようと要望を出し続けていますが、なかなか実現しないというのが実状です。

いずれにせよ、過去を振り返ることに特化した仕事をするという点は、病理医と他の科の医師との決定的な違いといえるでしょう。そして、その違いは私たち病理医の考え方に影響を及ぼし、そこに特異性を生んでいると思っています。

病理解剖によって変化した死生観

先述した通り、病理医と他の科との最大の違いの1つは「解剖するか、しないか」です。解剖は、患者さんの健康の向上に直接的には貢献しない行為ですし、時間軸で考えても、未来を向いている治療とは逆方向です。解剖は医療という世界の中でも非常に特殊な作業です。

前しか見ない集団の中に、後ろを見る人間がいるということは、組織の活性化のためには必要だと思うのです。流れ去る時間の中で、ゆっくりとものを考える人間だからこそ気づくこと、見えるものがあります。

私自身も病理解剖から、さまざまな影響を受けてきました。一番大きいのは死生観です。生前にどんなにお金持ちだったとしても、逆に貧乏でも、亡くなったら誰もが遺体になります。お金も権威も消滅します。名誉も不名誉もあの世に持っていくことはできません。そうしたご遺体を解剖させていただくなかで、この世の地位や名声に、あるときから冷めた目を持つようになったのです。

遺体とはその人の最期です。人生の末期を私たちに提供してくださったご本人、ご遺族の気持ちは果てしなく重いものです。その思いを受けて私たちは解剖を行います。体に傷が刻まれていたとしたら、その傷は生きた証。とても尊いものです。

与えられた人生という場所で、その人なりに苦闘してきたという事実こそが、なにより大切なのです。そういった生きる尊さを、私は医療現場で解剖という行為の繰り返しから学んだのです。

▲病理解剖によって変化した死生観 イメージ:工場長 / PIXTA