期待値を下回ることへの恐怖

もう一つ、会社経営でブレーキになったのは「期待を裏切ってしまったらどうしよう」という繊細な心だ。

これは選手時代の為末を「土壇場」に追い込んでもいる。世界陸上で初めてメダルを取って、二つめのメダルに向かうまでの時期だ。銅メダルを取ったあと、周囲からは「次は銀か金か」と期待をかけられるようになった。がっかりはさせたくないという気持ちがあり、言葉では「頑張ります!」と答えてしまう。ただ実際には、やっとの思いで銅メダルが取れたという感覚だった。

心の内は「もう1回、ここから気合いを入れていくのはしんどいな……」。そこで、一時バーンアウト(燃え尽き症候群)のようになってしまったという。日本代表としてのオリンピックや世界陸上という大舞台、周囲からの期待は大きなプレッシャーとなったことだろう。しかし、それは一部のトップアスリートだけが知ることできる感覚だ。

▲トップアスリートだけが知る境地がある

ビジネスでのそれは出資や融資を受ける、つまりお金を預かるときだ。為末が進めていたスタートアップ支援事業は、お金を集めVC (ベンチャーキャピタル)のような形にスケールアップさせよう、と考えていた時期があった。実際に出資企業との話も進んでいたそうだが、踏ん切りがつかなかった。

「VCは単独で意思決定できると聞いて、自分に向いているかなと思ったんです。実際に乗り気になってくれた(出資)企業もいて。ただそこで、“うまくいかなかったら、この担当者はすごく困っちゃうんじゃないか?”と考えてしまったんです。自分の気持ちだけで、この人を巻き込んだら申し訳ないと」

期待を裏切っても、他人に迷惑をかけても知ったことではない。勝てば官軍だ。そんな傲慢さはビジネスでは強さでもあるが、為末は持ち合わせていなかった。

「いろいろな経験をして自己分析をした結果、自分は体育会系というよりも文化系、というわけではないですけど、もうちょっとソフトな人間なのかなと。周りを振り回してでも獲得していく……というタイプではないですね」

為末の「土壇場」は、アスリートのセカンドキャリア問題とも重なる。一般論に広げて、この問題をどのように捉えているだろうか。

「悩みは主に二つあると思います。一つはちゃんと社会の中に適応して働けるか。もう一つはメンタルサイドの悩み。これがシリアスです。つまり“あのときが人生のピークだったのか?”と思いながら生きていくのがツラい。これはなかなかわかってもらえないんですが……ある一定以上のアスリート、元子役、アイドルの方などは、みんなこの悩みを抱えています」

そして、こうアドバイスを送る。

「自分はこういう人間だ、という固定観念があると難しいです。プライドを削って謙虚になってイチからやり直す。私は運が良くて、引退したときはピークからかなり落ちた状況だったので、転換しやすかった。メンタルサイドの悩みは、話ができる仲間を見つけながら、徐々に第二の人生に折り合いをつけていくことです」

「言葉の人間だ」と気づけた現在地

インタビュー終盤で為末は振り返る。「この10年は、まさにストラグル(もがく)する時間でした、一方で土壇場の連続だったことがよかったのかも」と。ビジネスへの挑戦では試練もあったがプラスも大きかった。その過程で、自分をもっと理解することができたからだ。

自分は何がしたいのか? 自分のユニークさとは? 自問自答を経て「言葉の人間」と気づく。言葉の世界は為末の原点でもある。小学校時代の部活は、読書部だった。

「毎週木曜日、本を読んで読書感想文を書く。それが楽しかったんです。陸上部は部活がなくて、地域のクラブで入っていました」

そもそも「体育会系文化は嫌いだった」という為末。

「陸上以外にもスポーツをやっていたんですが、空手は先生が怖すぎました(笑)。野球は決められたことをやらされるだけ、サッカーはチームワークが苦手でしたね。その点、陸上は放任文化がありましたし、30年以上前からスポーツ科学の教えが入ってきていました。オタクでもやれる感じ、と言いますか」

どちらかと言うと文化系。陸上選手が文化系の世界に入っていったのではなく「“何かを読んだり書いたりする人間が、たまたま足が速かった”ということなんです」と話す。

▲文化系なのに足が速かった少年期を振り返る

今、為末はその言葉の世界に集中している。今年7月には新刊『熟達論』(新潮社)を上梓し、売れ行きも好調で重版もかかったという。これまでも著作は数多いが、この本は初めて自分からテーマを提案して書き下ろしたものだ。

「現代版『五輪の書』をコンセプトに、自分の実体験に、本で読んだことや人と話したことを肉付けして整理していきました。これから未来はどうなるんだろう? どうやって生きていけばいいんだろう? そう悩んでいる人に読んでいただきたいです。AI時代の人間の価値、高齢化社会の成熟、グローバルから見た日本、そんな視点もこの“熟達”というテーマで抑えられないかなと思って」

“走る哲学者・為末大”に、読者向けに自己分析の方法を聞いてみた。

「一番いいのは、自分がどう見えてるのかをよく知っている人に聞くことです。だいたい、それは自己分析とズレています。それをすり合わせていくというのが、わかりやすい方法だと思います」

書籍の執筆以外にも、社会に対する鋭い提言も飛び出す“長文ツイート”も話題の為末。言葉の世界で、次にどんな活躍を見せてくれるのだろうか。

(取材:北野哲)


プロフィール
 
為末 大(ためすえ・だい)
1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2023年8月現在)。現在は執筆活動、身体に関わるプロジェクトを行う。主な著作に『Winning Alone』『走る哲学』『諦める力』など。45歳を迎えた今年、アスリートとしての学びをまとめた『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を刊行。 X(旧Twitter):@daijapan