2023年3月28日に現役引退を発表した、プロボクシング元WBA世界ミドル級スーパー王者、村田諒太。アマチュア時代の2012年にはロンドン五輪で金メダルを獲得し、日本人で唯一、アマ・プロ両方で世界の頂点を極めた。

元来、欧米人と比較して体格が劣るとされる日本人には“不可能”と言われてきたミドル級で、村田は世界王者として名を刻んでいる。アマ・プロを通じて多くの功績を残してきており、日本人ボクサーとして未踏の領域を歩んだ村田に「土壇場」について伺うとともに、現役時代を振り返りながらラストファイトとなったゲンナジー・ゴロフキンとの戦い、さらにキャリアのハイライトが何であったかなど、それぞれに村田自身の言葉で語ってもらった。

▲俺のクランチ 第32回-村田諒太-

ボクシング人生には土壇場なんてなかった

ボクシングは中学生の頃から始めた。その動機も、最初は自らの強さを示すことが目的だった。もともと腕っぷしの強さは校内で知られており、いつしか不良グループに標的にされることに。それでも力の差は歴然であり、村田は誰も寄せつけることなかった。

「中学生の頃に、下駄箱のところで上級生にからまれたことがあったんです。こっちが殴ったら、そいつがすぐに下を向いたから押さえつけたんですけど、これ以上やるべきではないと思ってやめたんです。それで、正門のほうへ向かって歩いていたら、いきなり後ろから蹴られて、振りかえったらそいつが立っていたんです。そのあと、何回か蹴ってきて“いやいや、終わっただろ”と、こっちはガン無視して帰宅したんですよね」

必要以上に相手を痛めつけることを嫌い、卑劣な不意打ちにも抵抗することはなかった。ところが不良たちは村田を“敗者”として扱い、偽りの事実を周囲に認識させる行為に及んだという。

「次の日、学校に行ったら、僕がやられたことになっていて“ふざけんなよ! でも、こいつら、嘘しかつかねえんだな”と思って。だったら、自分が強いことを証明しようと思って始めたのがボクシングだったんです」

その後、中学では練習から遠ざかった時期もあり、高校や大学でも得られたのは勝利ばかりではなかった。それでも、若き日に絶対的な自信を掴んでいたことを振り返る。

「勝てないと思った相手もいましたが、大学2年くらいからは“国内で誰にも負けることはない”と思えるようになり、そこからは内容も圧倒的だったと思います。勝利という事実が積み重なっていったことで、そう思えるようになりました。自分の才能がどうとか、スパーリングがどうとかってことで自信を得られたことはなかったですね」

学生時から実績を積み上げ、それらひとつひとつにより、闘ううえでの心の強さを築いていきたと語る村田。国際舞台でも存在感を示すまでとなり、アマチュア選手の最高峰の舞台であるオリンピックでも、2012年のロンドン大会で金メダルを獲得し、鳴り物入りでプロボクサーへと身を転じる。

2013年のプロデビューから14戦目で初の世界王座を戴冠、その後も防衛を成し遂げ、陥落を経験したものの、チャンピオンへの返り咲きも果たした。プロの世界でも強さを示し続けた村田は、ボクシング人生での「土壇場」についての問いに対し、笑顔で答えた。

「ないない、土壇場なんてないですよ。土壇場って何もしようがない、後ろが何もないという状態ですよね。そんなに追い詰められた記憶はないんですよね(笑)。ただ、状況的に、あとに退けないという場面はありました。大学職員だった頃に現役復帰して、仕事で休みをもらって世界選手権に出たときは“負けて帰れないな”とは思ってました」

村田の言葉からは、自信に裏打ちされた強さを感じる。ボクサーとしての強さはもちろん、言葉や振る舞いにも強さがあるからこそ、チャンピオンなのだろうか。バカみたいな質問になってしまうが、惚れ惚れしてしまって「村田さんにはボクシングが向いていたんでしょうね」と言ってしまった。すると、村田はこう即答した。

「向いていたんでしょうね。残してきた成績など事実からしたら、向いていたんだと思います。向いていなかったと思うことはないですね。金メダル獲って、チャンピオンにもなったのですから」