「世の中、バカしかいないんで」

今回のインタビューで、鈴木みのるの口からはそんな言葉が発せられている。普通ならば、眉を潜めたくなるコメントではあるものの「世界一性格の悪い男」と呼ばれるプロレスラーの言葉としては、自然な響きにも聞こえる。

国内外、さまざまなリングに上がり、強烈なキャラクターで異彩を放ち続け、“ヒール”という枠組みに収まらないほどの傍若無人な振る舞いで会場を沸かせてきた。プロレス、格闘技の世界で30年以上のキャリアを誇り、トップレスラーとして活躍を続ける鈴木にも「土壇場」という極限の状況が訪れたことはあったのだろうか。幼少の頃のエピソードも伺いながら、これまでの歩みを振り返ってもらった。

▲俺のクランチ 第40回-鈴木みのる-

20代の終わりに訪れた選手生命の危機

鈴木は1987年3月に新日本プロレスに入門、翌年6月にデビューを飾るも、1989年3月、入門から僅か2年で退団。自らの理想とする強さを追い求め、新生UWFへ移籍。その後、敬愛する藤原喜明が中心となったプロフェッショナルレスリング藤原組を経て、1993年に盟友の船木誠勝らとともに「パンクラス」旗揚げに至る。

プロレスというカテゴリーとは一線を画す、日本における総合格闘技の源流にも位置づけられる同団体で、およそ10年間にわたり、国内外の格闘家と鎬を削った。しかし、激闘の代償は大きく、パンクラスでのキャリア後半は故障を抱え、さらに若手の台頭もあり勝利からも遠ざかることになる。

このインタビュー企画「俺のクランチ」では、著名人の土壇場について聞いている。こうした経緯を知っている自分としては、こういうところが土壇場だったのではないかと感じ、話を向けると「土壇場? ねえよ! ないない、そんなの」と一笑に付した。

ただ、諦めずに深く聞くと、その頃の心境について話してくれた。

「俺は20代の終わりの頃、パンクラスで勝てなくて、体も悪くして……もう引退してコーチ業に専念するしか道がないという状況を迎えて、それで“やめようかな”と思ったことはある。土壇場というか、やめるかやめないかの瀬戸際はそのときだけ。現役を続けるか続けないかという選択をしたのは、その一度だけだよ」

ファイターとして結果が残せなくなるという現実に直面し、人生で唯一と強調する土壇場に立たされた鈴木。しかし、この土壇場がターニングポイントとなり再び、プロレスの舞台へと移ることを決意する。

「カッコイイことを言うと“追及”したんですよ。格闘技のすごい先端まで行って“はい、ここでお終い”というところまでやった。自分で団体を作って、チャンピオンにもなって、選手として落ち目になってやめていくんだと覚悟したんだよね。そこでフッと後ろを振り向いたら、広ーい世界が広がっていた。なにがって? プロレスのだよ」

大きなキッカケとなったのは、2002年に行われた獣神サンダー・ライガーとの総合格闘技ルールでの一戦だった。奇しくも、バーリトゥードマッチの戦いでプロレスラーと相対したことにより、かつてのプロレス少年に新たな感情が芽生えることになる。

「“あれ? 道があるかも”と思ったね。“戻りたい”という言葉が合っているかどうかはわからないけど、全てを捨てて、プロレスの世界に行きたいと思った。“俺、これを見ないでやめんの?”と思って。

何日も何ヶ月も考えて考えて、戻りたいと思った。それで当時のパンクラスの社長に相談して、イチからプロレスをやりたいという話をして、パンクラスを退団して、プロレス界に戻ったのが35歳のときだね」

▲今回のインタビューでは唯一の土壇場を話してくれた

猪木vsホーガン戦から「すべてが変わった」

今年の7月には、これまでのプロレス人生で鈴木が強い影響を受けた12人との対談をまとめた『俺のダチ。』が発売された。プロレスラー・鈴木みのるにまつわる興味深いエピソードを知ることができる。書籍の内容をなぞりながら、幼少期を思い返してもらうと、現在の鈴木からはどこか意外とも感じられる答えが返ってきた。

「ひと言でいうと、ガキ大将でつまはじき。小学校に上がってすぐだったかな。幼稚園の頃は、近所の子ばかりじゃないですか。でも小学校に上がると、ちょっと隣町の子どももいて。そうすると力関係のバランスが変わってきて、“あいつ、仲間はずれにしよう”みたいなのがあった。なんでかって? ウザかったんじゃないですか?

そいつらとは今も誰とも交流は無いですよ。自分も気にしてない。イジメられたとも思っていなかった。ただ、記憶のなかで、ちょっと強めに残っている出来事ではあるよね」

鈴木は「その頃から一人遊びが多かった。いつも一人でいた記憶が強く残っている」と振り返っている。野球ファンでもあった当時の鈴木は、駐車場の壁に向かってボールを投げていたという。また、サッカーボールを蹴るときも、自転車で出掛けるときも、周囲に友達と呼べる仲間はいなかった。

プロレスラー鈴木みのるにもイジメられた時代があったのかと、つい自分のイジメ経験を話して肩を並べようとした。すると、鈴木は言下にそれを否定した。

「それは簡単にイジメとか、そんな言葉では言い表せられねえよ。イジメられたという認識もねえし。俺のレベルに誰もついてこられなかっただけの、凡人の集まりだっただけでしょ。みんなは“信じられない”とか言うけど、俺の中では普通。そもそも自分は自分でしかねえから、勝手に他人の人生を重ねさせられるの、はあ?って思う」

小学校の頃に鈴木はプロレスと出会う。直接会場に足を運ぶようになり、鈴木の日常にプロレス観戦が加わることになる。無論、一人での観戦だ。

「プロレスは小学校の頃に、テレビでちょこちょこ見て好きになって、実際に会場に行くようになったのは中学生の頃かな。そこからテリー・ファンクやタイガーマスクブームがあって、中3までは観戦に行ってた。

一人で電車に乗って、一人で帰ってくる。親も誰も止めなかったですし。プロレスを見てくると言って、“一人で大丈夫なの?”って聞かれても、“大丈夫”ってだけ。お金も、実家が酒屋だったから、その手伝いしたり、あとは自分でバイトしたり。ムカつくのがさ、親に預けてたんだけど、それ勝手に使ってたんだよ! だから自分が免許を取るときに返してもらった(笑)」

日本国内にプロレス人気が沸騰していた1980年代、多くのファンと同じように鈴木は“見る側”に立っていた。しかし、鈴木自身が「あれからすべてが変わった」と位置づける、1983年の「アントニオ猪木対ハルク・ホーガン戦」がキッカケとなり、プロレスラーを志すことに。

試合中、病院送りとなった猪木の「仇をとる」という言葉に突き動かされた鈴木は、その直後、彼の人生に大きな影響を及ぼす人物と出会う。

偶然、実家の酒屋を訪れていた元プロレスラーの金子武雄と知り合い、当時、まだ日本国内に少なかったトレーニングジムに通い始める。横浜高校に進学後、レスリング部に入ると、ミュンヘン五輪金メダリストの伊達治一郎、さらに「サンボの神様」として知られるビクトル古賀と出会う。それらの出会いを鈴木はすべて“必然”だったと振り返る。

▲アントニオ猪木対ハルク・ホーガン戦がキッカケでプロレスの道へ