『タマフル』の電話企画で進む道が決まった
――進学を機に上京されたんですか?
前田 TEAM NACS、『水曜どうでしょう』、サカナクションとか、北海道のカルチャーが好きなので、札幌の国公立大学に行きたかったんですけど、私立では、好きだった宮藤官九郎さんの母校・日本大学芸術学部放送学科を受けようと考えていました。いろいろ調べていると、東京だし、卒業生もすごいし……と、進学先を迷っている時期に『タマフル』で、リスナーと電話をつなぐ企画に出ることになったんです。
出演前、蓑和田ディレクターとの打ち合わせで「ラジオの勉強がしたい」と進学の相談をしたら、蓑和田Dは日芸の「ラジ制」(ラジオ制作専攻)出身だそうで、アドバイスをいただきました。しかもその翌々週ぐらいに、地元の映画館のトーク付き上映会に宇多丸さんがいらっしゃったんです。そこで、宇多丸さんとまたお話ができて……。
時を同じくして、広島で放送されていた『ごぜん様さま』(RCCラジオ)と『カーボーイ』のつながりができて、自分のなかで東京の存在が急接近したんです。札幌からの風は感じなかったけど「東京からの流れがきてるな」と(笑)。そこで、日本大学芸術学部放送学科ラジオ制作専攻に進学しました。
――大学生になってもラジオの投稿をしていたんですか?
前田 『カーボーイ』と『タマフル』だけだった世界がブワーッと広がって、JUNKやオールナイトニッポンも聴くようになり、リアクションメール、ネタメールを送るようになりましたね。
――東京のラジオを聴き始めて、うれしかったパーソナリティーの反応を教えてください。
前田 『宮藤官九郎のオールナイトニッポンGOLD』で歌詞を考える企画があって。 (宮藤が作詞した)『BANG! BANG! バカンス!』を新しく作る流れで、メールを送ったら「いいね!」と反応してくださいました。ずっとドラマも見ていて、日芸に入るきっかけにもなった方だったので、うれしかったですね。
――ハガキ職人の方は皆さん、パーソナリティーのそういうリアクションがうれしいとおっしゃいますよね。では、印象に残っている番組やネタメールを教えてください。
前田 一番多く送っていた『霜降り明星のオールナイトニッポン』ですね。せいやさんの例の一件があって、2時間「ポケットいっぱいの秘密♪のコーナー」をやり通した翌週、「野党」のコーナーでネタメールが読まれたんです。ネタはせいやさんが好きそうな内容で、面白いわけでもないですけど、先週あれだけ楽しませてもらった人に読まれたうれしさはありました。
会社を辞める決意した佐久間宣行のイベント
――大学卒業後はどんな活動を?
前田 就職活動しなきゃいけない大学3年生の冬からコロナ禍になったんですけど、当時、サークルで演劇をやったり、ダウ90000の前身「はりねずみのパジャマ」に客演で出たり、1個上の先輩だった蓮見さんに誘われて、YouTubeに毎日コントをあげるネタを一緒に書いたりしていたんです。
僕が就活してるときに、はりねずみのパジャマの活動が止まったんですけど、蓮見さんが学生時代から組んでたコンビでコントライブをやっていたので、作家として手伝ったりはしていて……。そういったことに興味はあったんですけど、この先、演劇で食っていくにもコロナで漠然とした不安もあったので、テレビ制作のプロダクションに就職することにしました。就職が決まった1か月後に「ダウ90000」が旗揚げされて、僕も手伝っていました。
――ダウ90000とはそこでつながってくるんですね。作家になるきっかけは?
前田 就職後は、ドラマの制作現場で助監督をやっていました。早朝から夜中まで毎日働いているなか、ある日、朝5時半に渋谷発のロケバスに乗って千葉の現場に行く車内で、蓮見さんたちがパーソナリティーをしていた『24時のハコ』(TBSラジオ)を聴いたんですよ。
首都高に乗って朝日を見ながら、TBSラジオで先輩メインのラジオを聴いてると、これから10年助監督をして、30歳でやっと監督になれる……みたいなビジョンが浮かばない、もしかしたらこのバスに乗ってる場合じゃないかもと思いました。
そのドラマロケの終わりぐらいに『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』のイベントに行ったんですよ。就活してるころに中止になったリベンジイベントで、佐久間さんは脱サラしていました。もちろん立場は全然違うんですけど「フリーになったら、こんな輝いた場所に立てるのか!」って。賭けに出るのもありかな、と会社を辞めました。
その後は、ダウの公演を手伝いながらも、書く仕事もしたいし……と思って、noteに『古畑任三郎vs霜降り明星』を投稿。それを話題にしていただき、読んでくれたテレビの方が声をかけてくださって、深夜番組の構成に入れていただきました。
〇「古畑任三郎vs霜降り明星」の脚本を全部書く[note]
――もちろん才能も必要でタイミングや運もありますが、ラジオで人生が好転しているなと感じます。
前田 そうですね、ありがたいです。じつは作家として頑張ろうと思ったタイミングで、ラジオを聞くきっかけになった一文字さんがコロナでお亡くなりになったんです。一文字さんは、広島で名切勝則という名前で作家もされていたんですけど、高校生のときに何度かお会いしたことがあって。
名切さんがUSTREAM(動画プラットフォーム)でラジオをやっていたとき、オモシロ高校生みたいな立ち位置で毎回出していただいていたんですよ。そこで毎回フリップ芸とかコントをおろして、名切さんに文句言われる、みたいな。
当時は「なんだこのオヤジは」と思っていたんですけど、結局そのときの考え方とか、ネタづくりの姿勢が、『古畑任三郎vs霜降り明星』で発揮されて、今の仕事につながっているので感謝しています。