ナポレオンが躍進を続けた理由

フランス革命後の大規模な戦争である「ナポレオン戦争」は、その名前の通りナポレオンという軍事的天才が主役を務めました。

ナポレオンは、従来の「横隊」密集陣形を「縦隊」陣形に変更しました。訓練を受けていない大量の新兵に適応するためです。この戦術的変更は大きな変化をもたらします。地形の制約を受けず、山や川など様々な地形での戦闘を可能にしました。

また攻撃範囲が広い火器(銃や大砲など)が発展したことも重なり、散兵戦法が定着します。散兵戦法では兵士たちが広範囲に分散して戦闘を行い、敵の陣形を乱すことができたので、より機動的で変化に対応した戦闘スタイルが可能になりました。

また兵士の愛国心の高まりにより、従来必要だった兵站倉庫(兵士の食料や装備を保管する場所)の重要性が低下しました。これまで主戦力だった傭兵は、待遇が悪くなるとすぐに逃走しましたが、愛国心が高い兵士は劣悪な環境に置かれても文句は言わないからです。

ナポレオンは古代の兵站手法である現地徴発を再導入し、兵站システムを効率的に運用しました。この導入によって軍隊はより迅速に、低コストで物資を確保できるようになります。さらに戦術は持久戦から電撃戦へと移行し、陣地の奪取ではなく敵兵力の殲滅を目指すようになったのです。

これらの戦術的変革の背景には大きな理由があります。兵士が持つ愛国心の高まりや、訓練を受けていない素人でも扱える殺傷力の強い兵器(大砲や小銃など)の開発がありました。若き日のナポレオンは観兵式(軍事パレード)で、兵士たちに富と名誉を約束し、彼らの忠誠心を引き出したのです。

北イタリアへの進軍では、装備や兵力が劣っていたにも関わらず、フランス軍は新戦術を駆使して勝利を収めます。ナポレオンは「解放戦争」と呼び、兵士の士気を高め、現地の支持も得ることにも成功します。

英国との対決において大軍団を編成し、ナポレオンは英本土上陸を目指しましたが、トラファルガーの海戦での敗北により、計画は頓挫しました。

その一方、ヨーロッパ大陸ではウルムの戦いやアウステルリッツの戦いで大勝を収め、大陸の支配を拡大していきます。

ナポレオンが敗北するようになった原因

第四次対仏同盟戦争(1806−1807年)において、フランス軍はプロイセン(ドイツ)を打ち破り、ナポレオンはヨーロッパ大陸での支配を拡大し続けます。

この勝利によって、ナポレオンの支配を受けていない地域は、南のスペインと北のロシアだけとなりました。ナポレオンは英国に圧力をかける目的で、1806年に大陸封鎖令を公布しましたが、スペインとロシアはフランスの支配に反抗し続けたのです。

そのなかでもスペインは、1807年11月にフランス軍がポルトガルのリスボンを占領したにも関わらず、スペイン国民はフランス軍に対してゲリラ戦を展開しました。

ナポレオンは、スペイン国民がフランス軍を解放軍として歓迎すると予想していましたが、これが誤算でした。スペインの山岳地形はゲリラ戦に適しており、ナポレオン軍が得意とする「決戦・殲滅戦略」は通用しませんでした。さらに海上からは、英国が積極的にスペインを支援し、フランス軍は補給面で苦戦します。

この結果、1808年7月にスペイン南部バイレンでフランス軍が初めて大陸で敗北を喫しました。ナポレオンは自ら30万人の兵を率いてスペインに攻め込み、一時的には反乱を鎮圧しましたが、オーストリア反撃の知らせを受けて、フランスに急遽帰国することを余儀なくされます。スペインの抵抗は続き、残された20万人の大軍はスペインに釘付けとなってしまいました。

第五次対仏同盟戦争(1809年)において、再びオーストリアを下したナポレオンは、ハプスブルク家のマリー・ルイーズと結婚。フランスとオーストリアの結束を示そうとしましたが、フランスとオーストリアの接近を嫌ったロシアは、英国に近づき始めます。

ナポレオンはヨーロッパ征服の夢を実現するために、1812年にロシアに対する大規模な遠征を開始しました。この遠征には70万人の兵力が動員されましたが、ロシア軍は決戦を避け、持久戦を採用しました。この結果、モスクワ占領を懸けたボロディノの戦いでフランス軍は大きな損害を受け、撤退を余儀なくされました。さらにロシア軍の追撃により、フランス軍はさらに大きな損害を受けて壊滅的被害を受けます。

▲「ナポレオンのモスクワからの撤退」(アドルフ・ノーゼン画) 出典:Wikimedia Commons

このロシア遠征の失敗は、ナポレオン敗北の始まりを告げるものとなりました。プロイセンはロシアと同盟を結び、これにオーストリア、英国、スウェーデンなども同盟に加わりました。1813年、ライプチヒ近郊で行われた戦いでは、フランス軍は数的劣勢によって敗北。翌年、同盟軍はライン川を越えてパリに入城しました。

敗れたナポレオンはエルバ島に流されますが、1815年3月、ナポレオンはエルバ島を脱出。再び同盟軍に挑戦します。1815年のワーテルローの戦いです。しかし、善戦むなしくナポレオンは敗れました。最大の敗因は、ナポレオンが編み出した新戦術が同盟軍に盗用されたことでした。

外交的な孤立、スペインやロシア遠征の失敗、他国がナポレオン戦術を採用したこと……など、ナポレオンの敗北は複数の要因が組み合わさった結果だったのです。