2023年10月7日、イスラエルはパレスチナの武装組織ハマスの襲撃を受け、多数の死者と人質拉致が発生してから1か月。イスラエルのネタニヤフ首相は「人質の解放なしに停戦はありえない」として、空爆や地上侵攻を進めガザ地区を南北に分断したと伝えられています。

この武力衝突が始まったことで、ガザ地区の死者数は1万人を超え、数十万人のパレスチナ人が家を失っています。イスラエルとパレスチナが憎しみ合う原因を理解するためには、歴史的な知識が欠かせません。イスラエルとパレスチナが対立するに至った歴史的な経緯を、コンパクトにお伝えします。

もともとアラブ人が住んでいたパレスチナ

19世紀以前のパレスチナはオスマン帝国の支配下にあり、数世紀にわたってアラブ人が住み、イスラム教を信仰していました。

しかし19世紀後半から、ユダヤ人のあいだで「シオニズム運動」が高まりを見せ始めます。シオニズムとは、世界各地で離散していたユダヤ人が歴史的祖国であるパレスチナに集結し、ユダヤ人の国家を建設する運動です。欧州各地で反ユダヤ主義が台頭するなか、シオニズムはユダヤ人の安全な避難場所を求める声として広がりました。

パレスチナはユダヤ教の聖地であり、ユダヤ人にとって宗教的(精神的)な意味を持つ土地です。『旧約聖書』ではユダヤ人の先祖アブラハムが、パレスチナの地で「神と契約を結んだ」と記されています。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、シオニズム運動を展開する指導者らの働きかけにより、当時オスマン帝国の支配下であったパレスチナへのユダヤ人移住が本格化しました。

1880年代にはユダヤ人の人口はすでに2万人を数え、1920年代には10万人を超えるユダヤ人がパレスチナに居住するようになります。その一方でユダヤ人移民の流入は、パレスチナのアラブ人コミュニティとの緊張を高めつつありました。

イギリスの二枚舌外交が紛争の原因

第一次世界大戦中、苦戦する英国はパレスチナ地域に住む、アラブ人とユダヤ人の双方に対してアプローチしています。英国に対する戦争援助を引き出すためです。

1916年の「フサイン・マクマホン協定」において、英国はアラブ反乱軍の指導者フサイン・イブン=アリーに対し、オスマン帝国からのアラブ人独立を支援すると約束しました。

その一方、1917年の「バルフォア宣言」において、英国外相バルフォアはロスチャイルド男爵宛てに、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを支持すると表明しました。

このように英国は自国の戦争目的のために、アラブ人とユダヤ人の双方に対して都合の良い約束をしていたのです。英国による「二枚舌外交」が、このあと起きるパレスチナ紛争の原因となりました。

第一次世界大戦後、国際連盟の委任統治領としてパレスチナの統治が英国に委任されました。1920年から1948年にかけて、英国はパレスチナを委任統治しています。

国際連盟からの委任を受けた統治ではありましたが、実際にはイギリスがパレスチナの行政と安全保障を管理する強力な権限を持っていました。イギリスは移民制限などの政策でアラブ人とユダヤ人の対立を緩和しようとしましたが、必ずしも公平な立場ではありませんでした。

この英国による委任統治時代にも、ユダヤ人のパレスチナ移民は続き、アラブ人とユダヤ人の緊張関係は高まっていきます。

▲地図:Peter Hermes Furian / PIXTA

第二次世界大戦後も混乱は収束せず

第二次世界大戦後の1947年、国際連合総会はパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する「国連決議181号」を可決しました。この決議はパレスチナ地域の56%をユダヤ人国家に、43%をアラブ人国家に割り当てる内容でした。そしてエルサレムは国連管理地区とされました。

このパレスチナ分割案に対し、アラブ諸国を中心とするアラブ人側は強く反発します。国連の決議はアラブ人の土地を一方的に奪うものだと批判し、決議の受け入れを拒否しました。長年パレスチナに住み、土地を所有していたアラブ人の権利が無視されたと考えたのです。このアラブ側の反発は、戦後の新たな対立の火種となっていきます。

1948年5月、国連のパレスチナ分割決議に基づき、イスラエルは「イスラエル国」の建国を宣言しました。これに対してアラブ連盟は同日、イスラエルに対する“聖戦”を宣言。エジプト、シリア、レバノン、イラク、トランスヨルダンからなる、アラブ連合軍とイスラエル軍が交戦する「第一次中東戦争」が勃発します。1949年の休戦協定によってイスラエルが勝利し、国連決議よりも大きな領土をイスラエルは獲得しています。

その一方で、70万人を超えるパレスチナ人(アラブ人)が難民となり、難民キャンプでの生活を強いられることに。つまりパレスチナ人がはもともと住んでいた場所(パレスチナ)から追い出されたのです。パレスチナ難民の処遇と帰還権は、今日でも解決されていない懸案事項となっています。

第一次中東戦争後も、イスラエルとアラブ諸国の対立は続きました。1956年の「第二次中東戦争」では、イスラエルがエジプトからシナイ半島とガザ地区を占領しましたが、国際社会の圧力により撤退しています。1967年の「第三次中東戦争」では、イスラエルがヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領します。

ヨルダン川西岸地区とガザ地区は、歴史的にパレスチナ人にとって社会の中心地であり、1947年の国連決議で定められたパレスチナ人国家の領土にも含まれていました。またパレスチナ人が圧倒的多数を占める同地域は、パレスチナの中心的役割を果たすはずでした。

1973年の「第四次中東戦争」でもイスラエルが勝利を収めたため、以後イスラエルによる支配が長期化することになりました。イスラエルによるパレスチナ支配は、50年以上に及んでいますが、現在においてもパレスチナの領土問題は解決されていません。