壁を崩壊させたのは民衆の力だった

1週間後、デモの参加者は12万人に膨れ上がり、ホーネッカーは武力鎮圧を命じましたが、人民軍はそれをはっきりと拒絶。その翌日、ホーネッカーは失脚しました。

ライプツィヒの月曜デモが、稲妻のように他都市に波及したのは、そのあとのことです。11月4日には東ベルリンで100万人デモが起こり、9日、ついに壁が落ちました。

民主化運動というのは、世界の多くで起こっていますが、たいていは無惨に潰されてしまいます。1953年の東ドイツの民主化運動も、1956年の「プラハの春」も、どちらもソ連軍の戦車に鎮圧されました。

大きな権力を覆すことは難しく、失敗して逮捕されたら、生きて帰れるかどうかもわからないし、たとえ釈放されたとしても、体制が変わらない限り、あとの一生を棒に振る可能性は高い。それでも、あの頃のライプツィヒには、デモに出かけて行った人たちがあれほどたくさんいたのだと思うと、胸が熱くなります。

私は4年前からライプツィヒに住んでいますが、11月9日が近くなると、毎年、いろいろな行事があって、そんなとき、そこに集まっている普通の人たちから、彼らの誇りをもろに感じる瞬間があります。また、ニコライ教会に行くと、当時の写真が飾ってある部屋もあり、それを見ていると、私にはこのデモに加わる勇気があったかしらと、少し恥ずかしくなったり……。

いずれにしても私は、この時期の歴史に翻弄されながらも、しっかりと前進していくような雰囲気がとても好きで、いろいろなところに書いています。ところが、ヴォルスキーの著作を読んで以来、もし、この無血革命がソ連に仕組まれていたのだとすると、私はあちこちに間違ったことを書いてしまったかもしれないと、気に掛かります。

▲ミハイル・ゴルバチョフ 出典:White House Photographic Collection / Wikimedia Commons

福井:ゴルバチョフはソ連そして東欧の実情を直視し、既存の枠組みが持続不可能であることを理解し、改革によってなんとかソ連だけでも維持しようとしました。もはや東独のみならず東欧諸国支配は、ソ連にとって重荷でしかなかったのです。

仮にゴルバチョフが直接的には壁崩壊を主導したのだとしても、短期的にはともかく、長期的には歴史の流れというか、民衆の自由を求める声に抗することはできないと覚悟した、受動的対応だったのです。その意味で、壁崩壊をもたらしたのは、やはり民衆の力だったといえるのではないでしょうか。