1961年に旧東ドイツ社会主義統一党により作られたベルリンの壁。アメリカとソ連の冷戦時代に、155kmにおよびドイツを東西に分断した壁です。それから28年後の1989年11月9日に壁は壊されました。東ドイツの人々によって壊された壁ですが、青山学院大学教授・福井義高氏によると、ソ連のゴルバチョフが計画したという説があるようです。ドイツ在住のベストセラー作家・川口マーン惠美氏が詳細を探ります。

※本記事は、川口マーン惠美 / 福井義高:著『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音 -移民・難民で苦しむ欧州から、宇露戦争、ハマス奇襲まで-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

東ドイツ国民による平和的革命という物語

福井:ベルリンの壁崩壊は、当時のソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが計画し実行したと、旧東ドイツで貿易に従事していたミヒャエル・ヴォルスキーは主張しています(1989Mauerfall Berlin)。

川口:福井さんに教えていただいて、私もすぐに買って読んでみたのですが、とても驚きました。そのような説があることすら知りませんでした。私の周囲のドイツ人たちも想像もしていないと思いますよ。でも、本当ならすごいと、ちょっと興奮しました。

福井:ヴォルスキーの主張が本当かどうかはわかりません。しかし、経済的に行き詰っていた当時のソ連にとって、東独を含む東ヨーロッパ諸国が重荷となっていたことは事実です。

ヴォルスキーが壁崩壊計画の中心人物とするウラジーミル・セミョーノフは、第二次大戦中からソ連の対独政策に関わり、戦後の占領行政や東ドイツ創設に尽力し、最初のソ連駐東独大使を務めました。

セミョーノフは駐西独大使を最後に1985年に引退し「年金生活」に入ったと、死後ドイツで出版された『スターリンからゴルバチョフまで』(Von Stalin bis Gorbatschow)と題した回顧録の最後に記しています。ところが、その本の序文では年金生活に入ったのは1991年と書いているのです。

わざとか、思わず筆が滑ってしまったのか。セミョーノフは西独大使退任後も、特命大使としてケルン(大使館のあるボンの隣)にとどまり、壁崩壊後の1991年に引退、そのままケルンで生涯を終えました。

そもそも、当時のソ連高官が外国で年金生活に入るというのは極めて異例なことです。なんらかの密命を帯びていたとしか考えられません。

一方、1989年4月に当時のアメリカ大統領でCIA長官経験者でもあるジョージ・H・W・ブッシュは、歴代大統領に仕えた情報将校(陸軍中将)で、かつての部下である元CIA副長官のバーノン・ウォルターズ国連大使を「格下」の駐西独大使に転任させます。

1911年生まれのセミョーノフよりは若いものの、ウォルターズは1917年生まれで、前任者より30も年長の70歳を超える高齢での起用です。米ソ両国のトップに直結する二人のあいだで表にできない交渉があったと考えるのが自然でしょう。

ヴォルスキーによれば、重荷となっていた東ドイツの強権体制を見限っていたゴルバチョフは、東ドイツ指導者の抵抗を回避するため、壁の無血崩壊を秘密裏に行う必要があり、壁崩壊後も東ドイツ国民による平和的革命という物語を広めたというのです。

実際、ドイツだけでなく世界中で、ベルリンの壁崩壊における東ドイツ国民の自主性・主導性が強調され、今日に至っています。

▲ベルリンの壁 写真:フォトン09 / PIXTA

遅れるものは人生に罰せられる

川口:その無血革命というのが、まさに東ドイツの人たちの誇りです。しかも、それは今、私の住んでいるライプツィヒという街の真ん中にあるニコライ教会から始まって、東ドイツ中に広まっていったのです。まさか、ソ連がお膳立てをしていたなど、もちろん誰も思っていません。

壁の落ちる半年ほど前の出来事というのは、勇気ある人たちの物語で、とても感動的です。彼らが恐る恐る動かした小さな雪の塊が、次第に大きな雪崩(なだれ)となり、もう誰の力でも止められなくなる。そして、最後にはすべてが吞み込まれ、気がついたら目の前に新しい大地が広がっていたというような目眩(めくるめ)く達成感を、あの頃、その渦中にいた人たち全員が持ったのではないかと想像します。

東ドイツが激しく揺れ出したのは、5月の地方選挙のあとでした。選挙結果は「投票率が99.8%で、そのうちの99.7%をSED(東ドイツの独裁政党)が獲得」というもので、政府としては、これまでと同じことを言っただけでしたから、これが問題になるとは思っていなかった。

ところが、世の中の空気が変わっていたのです。人々は初めて、不正選挙追求の声を上げ、これが静かに民主化運動につながっていった。

当時、運動の核になったニコライ教会では、毎週月曜日に集会が開かれていました。ここでの話し合いは、宗教というよりも、かなり政治的な色を帯びていたのだと思います。そのうち彼らは「外へ!」というスローガンとともに、教会の外へ飛び出した。これが、最終的に壁を壊すことになる月曜デモの始まりでした。

9月4日、デモの参加者は1000人を超え、逮捕者が出ましたが、人々は諦めなかった。25日には8000人、10月2日には1万5000人と、デモは急速に拡大していきました。

そんな混乱のなかで10月7日、東ドイツは建国40周年を祝います。式典に招かれたゴルバチョフは「遅れるものは人生に罰せられる」という謎めいた言葉で、エーリッヒ・ホーネッカー書記長に暗に辞任を勧めたといいますが、ホーネッカーはその意味を理解しなかった。でも、国民はその言葉の意味を正確にキャッチした。ソ連は東ドイツの民主化運動に介入しないのではないかと、大いなる希望を持ったのです。

ゴルバチョフが去った2日後の10月9日の月曜デモが、東ドイツという国の分水嶺となったと言われています。この頃の月曜デモは、まだライプツィヒだけのものでしたが、7万人の市民が集まるという異例の規模でした。しかも、重装備の人民軍や警察が、デモ隊を包囲しており、7万の参加者の緊張は極限にまで達した。

おそらく人々の頭には、4か月前の天安門での惨劇が浮かんでいたのではないでしょうか。天安門の学生のように自分たちも制圧されるのだろうか、まずはゴム弾か、逮捕者は何人か、ゴム弾の次は実弾か……と、こんな考えが、皆の頭の中をめぐっていたはずです。犠牲者なしに終わるとは到底思えなかった。

ところが、この夜、軍も警察も、なぜか何もしなかったのです。そして、まさにこの夜、潮目が変わり、東ドイツの運命が決まったのです。