「谷さんもういいよ! 出るから!」

――松本さんが審査員に入ったのも、M-1が盛り上がった要因のひとつだと思います。審査員をお願いする際、どんなやりとりがあったのでしょうか。

谷:当時、ダウンタウンはコンビ結成して20年弱。まだまだ上には先輩がいっぱいおられるなかで、自分が審査員をすることに多少の遠慮があったと思うし、現役バリバリでやっている自分が審査員をするなんて、“ちょっとおこがましくないか”という気持ちもあったと思うんです。

私が審査員をお願いしに行ったら、逡巡されていたんですが、ちょうど紳助さんとの番組『松本紳助』の収録中だったので、紳助さんがやって来て「やらなアカン」「お前の役目や」と背中を押してくれたんです。それで「やりますよ」と返事してくれたんですけど、あの一言は大きかったですね。

――紳助さんとの番組だったのが功を奏しましたね。

谷:そこを目がけて行ったんですけどね(笑)。それから、毎年、審査員をお願いしに行ってたんですけど、毎回行くもんやから、途中から「谷さんもういいよ! 出るから!」という感じになっていましたね(笑)。

――出場者も視聴者も、松本さんが何点をつけて、どんな評価をするのか気にしています。

谷:全体の点数は良かったけど、松本くんの点数が低かったら落ち込むし、逆に全体ではダメやったけど、松本くんの点数が高くて喜ぶ組もいましたからね。やはり、みんな一番気にしていると思いますよ。

▲M-1において松本人志氏の存在は必要不可欠だったと語る

応募書類から衝撃だった「笑い飯」

――谷さんは、2010年(第一期)までプロデューサーを務められました。印象的な大会を教えてください。

谷:もちろん、どの大会にも思い出はありますけど、ブラックマヨネーズが優勝した2005年ですかね。それまでのブラマヨは、準々決勝まですごく面白いのに、なぜか準決勝になると勢いがなくなっていたんです。でも、2005年に準決勝を突破して、そのまま優勝。僕の周りにファンも多かったので、みんな喜んでいましたよ。

同年に出場したチュートリアルは、2001年(初回)に出たとき全然ダメで、2005年に久しぶりに決勝進出。すごくいい漫才をして5位になりました。それが翌年の優勝につながったと思うんです。そういったことも含めて、2005年大会はすごく心に残っています。

――毎年やっていると、そうしてドラマが生まれますよね。

谷:そうですね。10年目で準決勝を敗退したスピードワゴンの小沢(一敬)くんが、負けて去っていくときに、あまりの悔しさで叫んでいたんですよ。そういったシーンをよく覚えていますね。

それ以外にも、10年目で決勝に出られなくなり、腑抜けになったコンビもいましたが、彼らには「M-1が最終目標じゃなくて、劇場でお金を払って見に来てくださったお客さんを笑わせることが、漫才師の目標やで」と伝えました。

あと、10年目で決勝進出して負けたタカアンドトシに、チラッと「コンビ名を変えたら出られるんやで」と言ったことがありました。二人が真剣に考えて「『ジンギスカン』にコンビ名を変えて出ようかな」と言っていましたけど(笑)。

――お二人とも北海道出身だからですね(笑)。では、一番衝撃を受けた芸人さんは?

谷:笑い飯が衝撃でした。予選のときも、下手(しもて)から飛び出してきて、マイクを通り越して、上手(かみて)からまた出てくるとか、ボケとツッコミ入れ替えるとか、当時はビックリしました。しかも、応募用紙って普通は宣材写真が多いんですけど、アイツら、それぞれのスナップ写真を送ってきたんですよ(笑)。西田(幸治)は迷彩の服を着ていて「なんやコイツら!」って。そのあたりからも、他のコンビとの違いを感じていました。