昔から報道を疑わない日本人の不思議

普通に教育を受けたアメリカ人には、「メディア情報をうかつに信頼してはならない」という常識があります。なぜなら、高校でそう教わるからです。私の脳内には50年以上昔から定着していたそんな常識が、やっと日本人の間にも形成され始めていると、感じています。

伝統的に、寛大かつ寛容な人間でありたいと望む日本人は、他人をむやみに疑うことを良しとしません。猜疑心や警戒心が強い人は「器が小さい」と軽蔑されてしまいます。根が善良な日本人は「性善説」が大好きなのです。

だから日本では、自分と同程度の思いやりや誠実さが相手にもあることを前提に、人間関係をスタートさせます。この方法は日本人同士であれば大概上手くいくので、幼い頃から「成功体験」として心に刻まれ、習慣化します。

しかし、私から言わせれば、明らかに警戒すべき対象にまで同じ方法で接するのが、日本人の悪いクセです。「騙す方より騙される方がいい」という「性善説」に基づいた善良な人生の最終段階が「オレオレ詐欺の被害者」というのでは残念すぎます。

▲昔から報道を疑わない日本人の不思議 イメージ:PIXTA

加えて、多くの日本人には「肩書や権威に弱い」という弱点があります。

例えば、戦時中の「大本営」は、陸軍と海軍の上位にある最高統帥機関でした。日本軍の最高司令部であり、天皇陛下の命令を発令する「権威の象徴」だったのです。戦時中の新聞やラジオ、ニュース映画は「大本営発表」を報道していましたが、日本の不利な戦況は情報操作され、隠されていました。

もちろん戦争中ですから、国民の戦意を発揚・維持するためには必要なことでした。ですが、当時の「権威の象徴」である大本営と、現代まで続くNHKや朝日新聞などの大手報道機関が、国民に真実を伝えていなかったことは歴史的事実です。

それを大半の日本人が知っているはずなのに、テレビや新聞の報道を一切疑わない日本人は今でも多く、戦時中の先人たちの苦い経験は、現代日本人の生活に活かされていない気がします。

インターネット上の情報は、市井の人の素晴らしいスクープからフェイクニュースまで、本当に玉石混交です。ですからネット情報を全部信じるのも、全部をフェイクだと考えるのも間違いです。

私と違って日本人は、「テレビや新聞の情報は6~7割が信頼できる」と考えているようです。せいぜい2~3割が妥当と考える私にとってはショッキングでした。

メディアにとって「不都合な真実」は報じない

メディアへの出演経験などから私に言えるのは、メディアというものは日米問わず、大半がリベラル寄りに偏っていて、誤報も捏造も印象操作も、日常茶飯事ということです。

戦時中の日本では、「検閲」と「大本営発表」によって国民(臣民)の「知る権利」が制限されました。この歴史はよく批判されますが、「日本の国益」のために行われたことを忘れてはなりません。

「大本営発表」を批判する人々は、ダグラス・マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、日本を占領統治していた時代、戦時中を上回る検閲や報道規制が行われた歴史を知っているのでしょうか。

占領終了から67年目の現在も、「プレスコード」というGHQの命令を日本メディアがかたくなに守るので、この歴史的事実を知らない日本人は驚くほど多いのです。

▲警視庁検閲課による検閲の様子(1938年) 出典: Wikipedia

例えば、ワイドショーは沖縄で反基地運動に関わる活動家に、大阪府警の機動隊員が「土人」と発言した件には長い時間を割きました。しかし、大阪府警が沖縄に派遣された理由や、活動家の多くが東京や大阪、あるいは外国から送り込まれた「プロ市民(一般人を装った活動家)」である件などは報じません。

県外から来る活動家に迷惑している沖縄県民が怒りの声を上げても、活動家を支持するメディアにとって、それは「不都合な真実」なので報じないのです。

同じように、例えば安保法制についても、反対派の学者や政治家の意見、あるいは活動家の様子は、事細かに詳細に報じましたが、賛成派の学者や政治家の発言、そして安保法制が必要となった世界情勢の変化や、アメリカ政府の考えなど、本質的な問題点については報道時間が極端に少なく、まるで「愚民化プロパガンダ」のようでした。