ラジオ番組に欠かせないのが、ハガキ職人(現在はメール職人と呼ばれることも多い)の存在だ。radikoの普及によって、全国各地のラジオが聴けるようになった今、番組常連のハガキ職人の存在を認識したり、さまざまな番組で同じラジオネームを聴いて驚いた経験があると思う。

そんなハガキ職人の生態や現在に迫る「Radio Holic~ラジオとハガキ職人~」。今回は、高校1年生にして、『週刊少年ジャンプ』の投稿コーナーで優勝。その後も多数のラジオでの投稿が評価され続け、現在はお笑い芸人・構成作家として活躍する赤嶺総理にインタビュー。投稿時代から芸人になったきっかけ、思い出に残っている投稿内容、大喜利に対しての思いなどを聞いた。

Radio Holic~ラジオとハガキ職人~<第5回:赤嶺総理(お笑い芸人)>

手書きイラストで投稿を続けてきた

――赤嶺さんがハガキの投稿を始めたきっかけを教えてください。

赤嶺総理(以下、赤嶺):少年ジャンプの巻末に載っていた「じゃんぷる」という読者投稿ページの、とにかくアホなことを送るコーナーに応募したのがきっかけです。ジャンプは毎週読んでいたので、試しに1枚イラストネタを送ったら、それが掲載されたんです。

――え、いきなり載ったんですか! すごいですね。何才ですか?

赤嶺:中3のときなので、14歳ですね。

――14歳ですか!? どのような子ども時代を送っていたのか気になるのですが……。

赤嶺:小中高と図書委員をしていて、読書好きなおとなしい子でした。分類番号913の本はよく読んでいましたね。

――本の分類番号……それってどこも一緒なんですか?

赤嶺:え、どうなんでしょう(笑)。図書館の本を分類するための番号だとは思いますが……。読みたいと思う本が、その番号の棚にずらっと並んでいたので、番号だけは覚えてました。

――(笑)。その頃からお笑いは好きだったのでしょうか?

赤嶺:はい、好きでした。小学生の頃、いとこが泊まりに来たときにだけ夜更かしができたんですけど、テレビをつけたら『爆笑オンエアバトル』 がやっていたんです。なんだこれ面白い!って、それからは毎週ビデオに録画して観るようになりました。あとは『内村プロデュース』も好きでよく観ていました。

――中3の初投稿から「赤嶺総理」なんですね。

赤嶺:そうなんです。周りがハンドルネームを名乗っているのに合わせて、なんとなくで付けました。赤嶺は本名で、下の名前はシオリっていうんですけど「しおりしおりしおり……そりそりそり……総理」みたいな感じです。

――実際に送ったハガキを見ましたが、中3にしては絵もうまいですし、今でも大喜利の答えで出てもおかしくないクオリティだと思いました。

赤嶺:「じゃんぷる」をずっと読んでいたので、なんとなく“こういう投稿がウケる”とわかっていたからだと思います。絵も小さい頃から描くのが好きだったので、表現したいこととうまく噛み合いましたね。

――高校の同級生には、ジャンプで『磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ』を連載されていた漫画家の仲間りょうさんもいたとお聞きしました。

赤嶺:はい、当時はクラスも違っていて交流がなかったので、お互い芸人と漫画家になったあとで知りました。まだ会って喋ったことはないです。向こうは私のことを「なにやらジャンプの新人賞をとったことがある」と認識していたそうです。

――(笑)。高校生で優勝してしまうなんて、ものすごい才能ですね。

赤嶺:才能よりも、紙に書いて送ることにこだわっていたのが優勝できた要因かもしれません。当時は、字だけのネタが1~2ポイントだったのに対し、絵のネタは評価が高ければ5ポイントもらえていたんです。

さらに、インターネット投稿が解禁になって、みんながハガキ投稿から離れるなかで、ひたすら紙に書いて送っていました。字のネタでも手書きのほうが伝わりやすいかなと思い続けていたこともあって、優勝できたんだと思います。