松任谷由実との出会いによって“おやじダンサーズ”結成
振付師として、そしてダンスイベントのプロデューサーとして、がむしゃらに働く日々が約8年。いつしか子ども向けのショーは減り、仕事の主流はコンサートのダンサーのマネジメントになった。時間に余裕が生まれると「そういえば俺は歌いたかったんだ……」と思い出したと彼は話す。
ちょうどその頃、そんな彼の気持ちをさらに奮い立たせる人物との出会いがあった。それはユーミンこと松任谷由実と、その夫の音楽プロデューサー松任谷正隆だ。
「僕の会社に所属するダンサーが、松任谷さんの音楽学校で受付をしていて、ユーミンのバックダンサーに誘われて。それがご縁で、数年間ユーミンのステージの振り付けをしました。最初は1995年。そのときのステージのラスト曲が『春よ、来い』だったんですが、感動して大泣きしながらも“自分もあそこに立ちたかったんだよ!”って」
そこから松任谷夫妻を良き相談相手に、再び自身がステージに立つための行動に移る。そこで生まれたアイデアが、のちに大成功を収める“おやじダンサーズ”だった。
「ユーミンさんから“普通のダンスチームなんて面白くない”と言われて。それで“太っていたり、ハゲてたりする普通のおじさんたちがカッコよく踊るのはどう思います?”と聞いたら、“面白いじゃない!”って」
「踊れるおじさんを知らない?」と周囲に声をかけ、ようやくメンバーが揃ったところでプロモーションビデオを制作。広告代理店に売り込みをかけた。
「みんな面白がってはくれるけど“前例がないから……”と断られ続けました。そんななかで、サザンオールスターズのスタッフの方が、桑田佳祐さんに僕らのPVを見せてくだって。そしたら、桑田さんが“面白いね!”とアルバムのコマーシャルに使ってくれたんです」
そこからは、ひねりの効いたプロモーションが始まった。
「今は無き新宿コマ劇場の上階に、1000人くらい入る大箱のクラブがあって。そこで幕が開いたら僕らが15秒だけ踊って、お客さんが“なに!?”と思った途端に終わるというショーを夜な夜なやりました。それが口コミで広がってクラブが満杯になり、レコード会社の方も見に来てくれて、CDを出せることになったんです」
晴れてCDデビューした“パパイヤ鈴木とおやじダンサーズ”は、テレビで引っ張りだこの人気者に。しかし、当初はおやじダンサーズの「どこが面白いのかピンときていなかった」が、おやじダンサーズの成功は、振付師としての彼のクリエイティブにも変化をもたらしたという。
「最初は客観視できなくて、自分たちの面白さに気づくようになったのは、当時の音楽番組『THE夜もヒッパレ』に出演してからでした。
それまでは相手のニーズに合わせたおとなしい振り付けでしたが、おやじダンサーズで一度振り切ったら、自分のやりたいことができるようになって。クラシックのオーケストラの前で踊ったときは、“お尻締める!”みたいな振り付けをしたんです。本当にこの振付でいいですか!?って思いましたが、みんなノリノリで(笑)。ドイツの女性指揮者の方が指揮棒を振りながら爆笑してました」
その後、『元祖!でぶや』などバラエティー番組にも出演。マルチタレントとしても活躍の場を広げていく。多忙な日々にめげそうになることはないのだろうか?
「ほとんどありません。例えば、石塚(英彦)さんと一緒に半袖姿で雪山にシロップをかけて“かき氷だ!”なんてやった次の日がライブだったりとか、風邪ひいたらどうする……くらい。無理難題なスケジュールも平気で受けてました」
座右の銘は「人生プラスマイナスゼロ」
気持ちは前向きでもネックだったのは体の不調。意外にも「子どもの頃から体が弱かった」と語る。
「ダンスを始めたばかりの15歳の頃から足に血管腫という症状があって、血管がねじれて腫瘍みたいに膨れちゃうんです。手術で治すこともできるんですが、当時は手術を避けてテーピングでガチガチに巻いて踊ってました。結果的に自然治癒したんですが、それまで体を騙しながらなんとかやって。でも、ついに足首が剥離骨折したときはお手上げで、千葉の名医に手術していただきました。40代始めのときでした」
その頃、パパイヤはダイエット本『デブでした。』を刊行しているが、このダイエットも手術に備えてのものだったと告白する。当時の彼は多忙を極めていた時期。どうやって乗り越えたのか?
「当時、手術のことは誰にも言いませんでした。“健康のために痩せました”としか言ってなかったので。『元祖!でぶや』の相棒、石塚さんも手術のことは知らないんじゃないかな。
僕の座右の銘は『人生プラスマイナスゼロ』。うちの母がそういう考えの人で、大変なことのあとに必ず良いことがあると思っていて。だから、大変な局面でも良い面を探すのは慣れているんです。そして、真面目にやっていれば、誰かが必ず助けてくれますから」
昨年の夏からは、盟友・錦織一清とのダンス&ボーカルユニット「Funky Diamond 18」での活動もスタート。元気に歌とダンスを披露し、ますます精力的に活動中だ。
「ニシキとは、20年以上前に少年隊がやっていた番組で久々に再会して。その日の夜から飲み友達になりました(笑)。僕のダンスの師匠がニシキの師匠でもあって、10年くらい前から“2人で曲を出せば?”と勧められていたんです。ニシキとも“一緒にブルース・ブラザーズみたいなことやりたいね”と話していて。
少年隊はジャズダンスのイメージですけど、ニシキ自身はストリートダンスのオーソリティで、すごくうまいんです。僕は40年以上前から知っているから、それをファンの人に見てもらいたくて」
具体的になったのは2022年の2月。やると決めてからは早い展開で話が進み、昨夏にはミニアルバム『PRIMEMAX 』をリリースし、全国4都市でのツアーも開催した。
「とても楽しかったです……ニシキが(笑)。楽屋で“こんなに幸せなことはない”と言ってましたから。僕らの音楽の好みは正反対で、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で言うと、ニシキは『More Than A Woman』みたいな洗練されたしっとりした曲が好きで、僕はテーマ曲の『Stayin' Alive』のほうが好み。でも、それでいいんです。だからこそアルバムもバリエーションに富んだ内容になったし。このユニットはまだまだ続けていきます」
(取材:本嶋 るりこ)