今から39年前の1985年8月12日、午後6時12分に羽田空港を離陸し、大阪に向かった日本航空123便が同24分頃から操縦不能に陥り、迷走飛行の末、同56分に群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1565メートル、通称「御巣鷹の尾根」)に墜落。乗員、乗客計524名のうち520名もの尊い命が奪われました。ご存じの方も多いと思いますが、単独機の事故では世界最多の死者を出したことで知られる「日航機墜落事故」です。
自衛隊の元陸将・小川清史氏が、当時を振り返りつつ、「心の準備」の大切さを教えてくれました。
※本記事は、小川清史:著『どんな逆境でも、最高のパフォーマンスを発揮する 心を「道具化」する技術』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
「日航機墜落事故」の現場で学んだこと
NHKニュースで「日航機123便が長野県と群馬県付近で行方不明」と耳にしたのが当日の夜7時頃と記憶しています。松本駐屯地所在の第13普通科連隊の情報小隊長だった私は、真っ先に現場に到着して連隊長に状況を報告する義務がありました。
すぐに下宿から2キロ程弱離れた駐屯地まで走りました。そして、ドライバーを含む部下3名と通信機および1日分の缶飯とともにジープに乗ったのは、ニュースを聴いてから30分は過ぎていなかったと記憶しています。
まずは近くの南相木村役場までジープで行き、そこからの山道は徒歩でした。当時は通信手段が限定されており、墜落現場の細部位置がはっきりしません。暗い山道を数方向に分かれて前進していたところ、空が白み始める朝4時前後に明確な細部位置の情報が届き、経路修正をして現場に向かいました。
この11時間の移動時間のうち、半分くらいの時間は、現場へ早く到着する方法を考えていました。残りの半分の時間は、現場に着いたときにどのような惨状になっているのかと想像し、その後の救助方法や救出ルートを考えていました。
特に、ジープで向かっていた前半夜(24時までを前半夜、24時以降を後半夜と言います)は、暗闇の中で旅客機がどのような破損状態にあるか、乗客の皆さんがどのような怪我をされているのか、場合によってはかなりひどいお姿になられているかもしれないと考えていました。
ジェット燃料が引火し、旅客機や乗客の方に被害がおよび、周辺山林にも火災が見られるかもしれない――。
現場に到着しても動揺しないように、繰り返し繰り返し予想される惨状を頭の中で反芻し、一緒に行動する部下たちとも、その想像図を共有するようにしていました。
空が白み始めて墜落現場が近づくにつれて、地元の消防関係者(消防団だったかと思います)が同行し、獣道のようなところを案内してくれました。地元の方の話だと、周辺の山は営林署も最近は歩いていないので、稜線沿いの道も消えかけているとのことでした。
いよいよ現場が迫ってくると、先頭にいた消防団員らしき方が「わぁ! ひ……ひどい」と叫(わめ)きながら私たちの後方に走っていきました。走ってきた元の方向には、乗客らしき方の上半身が非常にかわいそうな状態で横たわっていました。周辺の葉っぱをかき分けると、半乾きの肉片が手にびっしりとこびりついてきます。
想像していた通りの惨劇と、それ以上のひどい状況が目の前にありました。
しかし、私と部下たちは、それに動揺することなく、この状況を上級者に報告したり、周辺を確認したりと任務を遂行することに集中していました。
当時はあまり意識できていなかったのですが、事前に現場の惨状を予測して頭の中で反芻していたことが、ショックを和らげる効果をもたらしていたのだと思います。
当時、私は25歳でしたが、日航機事故以前の23歳のときにも長野県飯山市の水害派遣に参加し、災害現場の悲惨さを経験していたこともあって、自然と他の現場でも事前に惨状を予測するようになっていました。そのおかげで、日航機の現場でもショックを和らげることができたのではないかと思います。
一方、ショックを受けていた地元消防団の方は、私よりかなり年上に見えましたが、災害現場の悲惨さを経験されたことがなかったようです。現場に向かうことで精いっぱいなこともあって、現場到着時に惨状を見て相当に動揺されていました。
今から振り返ると、事前に惨状を繰り返しイメージして「心の準備」をしておいたことが、予防注射のように心の免疫力を高める効果を発揮し、予測される激烈なショックを和らげることができたのではないかと思います。
あるいは、「心の準備」には、心にあらかじめショックアブソーバーを取り付けておくような働きがあったとも言えるでしょう。
これはあとで聞いたことなのですが、ヘリコプターで現場に来てロープで降下した先輩は、PTSDのような症状に数週間から1か月ほど悩まされたとのことでした。
かなり頑強で精強な精神をお持ちの方だったので、その話を聞いたときは信じられないくらいでしたが、時間をかけて陸路で現場に向かった私たちとは違い、空路だと比較的早く現場に到着します。私たちのように、心に予防注射をして免疫を高める時間、すなわち「心の準備」をする時間など、ほとんどなかったのだと思います。