新大陸を“発見”したとされてきた探検家のコロンブスへの評価も変わり、大航海時代に西洋諸国によるキリスト教の布教が、侵略と植民地政策と密接に結びついていた歴史的事実を知るに至った今、政治評論家の三浦小太郎氏が、「バテレン追放令」を豊臣秀吉が出した意味を再検証する。

※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

宣教師たちによる日本に対する軍事行動計画

秀吉は1587年の伴天連追放令のあとも、現実に宣教師たちを捕まえて、強制的に追放するような行動は控えていた。

キリスト教が、他の宗派と衝突することなく一つの信仰として、この日本社会に軟着陸するのであれば、南蛮貿易を継続するためにも、キリシタン弾圧や追放など、ポルトガルやイエズス会と決定的に対立することは避けたかったのだ。

▲豊臣秀吉像 写真:shimanto / PIXTA

コエリョ司祭も、全国のイエズス会士を平戸に集め(イエズス会の領地だった長崎は、秀吉により接収されることは確実だった)、追放令は無視して日本に残留する、しかし、秀吉を刺激することは極力避けることを基本方針として決定した。

全国に散っていた宣教師たちが九州に集結し、充実した布教や教学を施すことができたので、改宗者が増え、質が上がったという報告もあるほどである。

しかし、この裏で見過ごしてはならない計画が、コエリョを中心に日本の司祭たち(フロイスを含む)によって企画されていた。

ポルトガルとスペイン軍による日本攻撃計画を、彼らが本国やマニラに打診しようとしていたのである。以下、このキリシタン宣教師たちの日本に対する軍事行動の計画については、高瀬弘一郎の優れた論考『キリシタン宣教師の軍事計画』が詳しく論じている。

中国征服のためにキリシタン大名を支援

すでに1585年3月3日付で、コエリョがフィリピンのイエズス会宛てに、日本へのスペイン艦隊派遣を求めた書簡が記録されている。

「(前略)総督閣下に、兵隊、弾薬、大砲、及び兵隊のための必要な食糧、一、二年間食糧を買うための現金を充分備えた三、四艘のフラガータ船を、日本のこの地に派遣していただきたい。それは、現在軍事力に劣るために抵抗出来ず、他の異教徒に悩まされ、侵犯されている何人かのキリスト教徒の領主を支援するためである。(中略)

この援軍の派遣により、陛下にとっていろいろ大きな利益が生ずるであろう。

第一に、これらのキリスト教徒の領主とその家臣は、これほど遠方から陛下の援助が与えられるのを知り、その庇護の下に一層信仰を強固なものにする。

第二に、異教徒はこのことから脅威と驚きを抱き、キリスト教会に対する迫害や、新たに改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。

第三に、異教徒は、キリスト教徒が陛下から援助をうけるのを見て、これを好機に、改宗に反対する領主を恐れることなく改宗するであろう」

『キリシタン宣教師の軍事計画』より

当時、フィリピンはスペインの支配下にあり(1529年、スペインとポルトガルのあいだで決められたサラゴサ条約によって、フィリピンはスペイン領と決められていた。これはトルデシリャス条約の部分修正であるが、これまた、当のフィリピン人には関係のない侵略者間の取り決めである)、同地のフィリピン総督は、しばしば中国大陸への武力征服を提案する文書をスペイン国王宛てに送っていた。

▲トルデシリャス条約の条文 出典:Biblioteca Nacional de Lisboa / Wikimedia Commons

スペイン国王は、そのような軍事的冒険よりも、フィリピンの経営と対中国貿易に専念することを求めていたのだが、同地の宣教師たちのあいだでは、布教のために中国を征服することを求める声が盛んにあがっていたのだ。

コエリョも彼ら同様、将来の中国征服のためにも、日本のキリシタン大名を軍事面で支援し、その勢力を広げていくことを求めていた。

ここで重要なのは、キリシタン大名の側にも、コエリョの計画に賛同する面があったことである。

1587年6月26日付で、フィリピン総督からメキシコ国王に送られた報告書には、フィリピン総督との貿易を望んでいた平戸の松浦鎮信(彼自身はキリシタン大名ではない)から、必要であれば充分な武装兵を安価な傭兵料金で派遣する用意がある、またキリシタン大名の小西行長の軍も共に行動するだろうという申し出があった、という記録が残されているのだ。

コエリョの軍事行動の要請は、根拠のないものではなかったのである。