「俺はジャンボ鶴田の添え物でしかない」
天龍が第三の男として頭角を現してきた81年夏すぎから、鶴田と天龍の関係は以前とは変わっていく。プライベートではいつしか右と左に分かれて疎遠になっていったのだ。
「ジャンボがシリーズの休みの時にギターを弾きながらコンサートをやったりして夜の街には繰り出さなかったから、俺はことさらそっちのほうに踏み込んでいきたいというのがあったんじゃないかな(笑)。趣味嗜好が合わなかったということだよ。やっぱり生き様が違うから、仲良くはなってもベストフレンドにはなれなかったね」<天龍>
リング上では83年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』から、全日本の看板タッグチームは馬場&鶴田の師弟コンビから鶴田&天龍の鶴龍コンビになり、同年のプロレス大賞で最優秀タッグチーム賞に輝いた。翌84年9月にはインター・タッグ王座を戴冠、同年暮れの最強タッグに優勝して2年連続でプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞している。
そして85年に長州力らのジャパン・プロレスとの対抗戦が始まり、86年1月〜87年2月の鶴龍コンビと長州&谷津嘉章の抗争は“タッグ名勝負数え唄”と呼ばれた。
相手の攻撃を天龍が真っ向から受けまくって耐え、相手のスタミナをロスしたところで鶴田が仕留めるというのが鶴龍コンビのパターンだった。
天龍は鶴龍コンビを振り返ってこう語る。
「鶴龍時代なんて全然思ってなかったね。“俺はジャンボ鶴田の添え物でしかない”っていうのが正直なところだったよ。プロレスって不思議なもんで、ふたりが光ることってないよ。両雄並び立つことはあり得ないんだよ。鶴龍コンビのままだったら、俺はブレイクできなかっただろうね。ジャンボと組んだらそういう立ち位置になっちゃうね」
実際、人気面での差は歴然としていて、ふたりでサイン会をやると必ず鶴田のほうに長蛇の列ができた。自分に並んでくれた数少ないファンに対して天龍が「今は大して価値がないサインかもしれないけど、いずれ必ず“もらっておいてよかった!”と思えるサインにしてみせるから」と心の中で誓いながら、ペンを走らせていたのは有名なエピソードだ。
改めて鶴龍コンビ時代を振り返ると、ふたりは試合後に並んで取材を受けることはなかった。控室に戻ってくるや、右と左に分かれてしまうのだ。そうなると、どちらに先に話を聞きに行くべきか気を遣ってしまう。
マスコミ側も心得たもので、各社の記者が目配(めくば)せをして、鶴田と天龍に同じ数の記者が集まるようにパッと分かれていた。
仲が悪いわけではないが、鶴龍コンビは決して仲良しこよしのタッグチームではなく、一種の緊張感を伴っていた。それがそのまま鶴田と天龍のふたりの関係でもあった。
※本記事は、小佐野景浩:著『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。