天才・鶴田の呪縛で苦しみ続けた天龍

当時、鶴田は25歳。天龍は1歳上の26歳だったが、後輩は大仁田厚、渕正信、薗田一治(ハル薗田)の3人しかいなかった鶴田にとっては、気軽に話ができる同年代の仲間が増えたことは嬉しかったに違いない。

天龍は入団から1か月もしない10月30日に渡米。かつての鶴田と同じようにテキサス州アマリロのファンク・ファミリーに預けられて修行を開始した。

翌77年3月、天龍は馬場とのアメリカ・ツアーでアマリロにやってきた鶴田にアパートで素麺をふるまったり、ドリーに頼んでチケットを取って、エルビス・プレスリーのコンサートに一緒に出掛けたりしている。

同年6月に天龍が凱旋帰国したあとは、新橋の『スコッチバンク』や、赤坂の『コルドンブルー』などの天龍の行きつけの店でふたりで連れ立って飲んでいたという。

こうして当初、私生活では友達関係にあった鶴田と天龍だが、プロレスラーとしては天龍にとって鶴田は大きな呪縛になった。馬場も、アマリロで指導したドリーも、鶴田を尺度にして天龍を見ていたからだ。

▲アマリロ武者修行時代の鶴田の呪縛に悩まされることに

天龍も鶴田同様に各種スープレックスができて、ドロップキックができて、すべてがこなせるレスラーになることを要求された。

「馬場さんは俺にジャンボ鶴田と同等を求めただろうし、ドリーは俺のまえに修行に来ていたジャンボの例があるから、“天龍も2〜3か月でOKだろう”ぐらいに思っていたと思うよ。でも、思うに任せない俺がいたし、何かにつけてドリーやコーチのジェリー・コザックに“3か月もしたら、トミー(ジャンボ鶴田の愛称)に教えることは何もなくなってしまった”って言われるのがプレッシャーだったね」<天龍>

天龍は相撲体型をプロレスラーのそれに変え、ダブルアームとサイドの2種類のスープレックス、ドロップキックをマスターし、さらに鶴田にはない技としてテリーの必殺技ローリング・クレイドルを伝授されて、77年6月に日本デビューを果たしたが、すぐにメッキが剥がれてしまった。

「ジャンボとタッグを組まされて、タッチされた時にはもう、ジャンボが4種類のスープレックスとかすべてやっちゃって、代わった俺は何をしていいのかわからなくて、相手の外国人選手の腕を持ってるだけ(苦笑)。“別にタッチに来なくていいよ”って思ってたよ。実際、ジャンボはとてつもなく素晴らしかったし、比較されるにはハードルが高すぎたね。俺の“第三の男”なんて名前だけで……上にジャイアント馬場、ジャンボ鶴田がいたら、とてもじゃないけど太刀打ちできるわけがないよ」<天龍>

▲鶴田のスープレックスは見る者を魅了した〔写真は1976年〕

スランプに陥った天龍はその後、アメリカに2回修行に出て、ようやく日本に定着したのはプロレス転向から4年半後の81年5月だ。

同年7月30日の後楽園で、ビル・ロビンソンと組んで馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した試合で延髄斬りをやってのけ、その破天荒なファイトがファンの共感を呼んで馬場、鶴田に次ぐ“第三の男”に浮上する。

「あの試合は馬場さんもそうだけど、ジャンボが“源ちゃんにやっと俺たちの相手方に回れるチャンスが巡ってきたんだな”っていう感じで、俺がやる技のすべて受け切ってくれたっていう印象があるね。だから後楽園がやたらと沸いた。あの試合で俺は初めて“ファンから支持されてるんだ”と思ったよ」<天龍>