天龍革命を全面的に支持したジャイアント馬場

プロレスの“革命”というと、長州の『維新革命』にしても“反逆”のイメージが強いが、天龍革命が画期的だったのは、団体の責任者の馬場の了承を得ての“無血革命”だったということだ。 当時、新日本はUターンした長州を中心に藤波辰巳(現・辰爾)、前田日明らが団体の枠を超えてアントニオ猪木、マサ斎藤らに世代交代を迫っていた。

こうした2団体の流れから、時代を変えようとする“ニューリーダーズ・ブーム”が起こっていたが、馬場は天龍に全幅の信頼を寄せてこう言っていた。

「天龍が他のニューリーダーと、どこが違うか。それはな、私利私欲がないことなんだよ。どうすればプロレス界が、ウチの会社が良くなるかを常に考えて行動している。そしてアレ(天龍)は、プロレス界でトップを獲ること、スターになるにはどうしたらいいかを知っている。練習をして、常に一生懸命やるということをね。だから俺は天龍が何を言おうが、何をやろうが、全然心配しておらんよ」

天龍革命勃発後、鶴田と天龍が初めて激突したのは6月11日の大阪府立体育会館。鶴田&タイガーマスクVS龍原砲がメインで組まれた。

闘志を剥き出しにしたのは天龍よりも鶴田のほう。タイガーマスクVS原で試合がスタートして2分後、タイガーマスクのタッチを受けて原と対峙した鶴田は、いきなりコーナーに控えている天龍に先制のエルボーバットを見舞って挑発したのだ。

ここで原が天龍にタッチして、ついに4年2か月ぶりに鶴龍対決が実現。天龍は原との連係でダブルチョップを叩き込み、ブレーンバスターを見舞った。

天龍が原にタッチしたため、初遭遇は数十秒だったが、天龍がタイガーマスクをフォールに入ると、鶴田がすかさず飛び込んでストンピングの嵐。8分すぎの2度目のコンタクトでは鶴田がジャンピング・ニー、ストンピング、ジャンピング・ニー、ストンピングの喧嘩ファイトに出た。

「こういうジャンボの顔は今までなかったですよね。これがやっぱりジャンボに必要なんですよ。今まで一番ジャンボに欠けていたものが、この試合に出てきましたね。ですから、こういう試合はやっぱりやるべきですね、いいですね!」

▲馬場は「ジャンボに欠けているものを天龍は持っている」と評価していた

思わず解説席の馬場が声を弾ませた。

鶴田が原にコブラツイストを決めると、天龍が「休ませてなるか」とリングに飛び込んで鶴田に痛烈なビンタ。そして龍原砲のサンドイッチ・ラリアットが爆発!

最後は乱戦の中で、天龍と原が鶴田にサンドイッチ・ラリアットを浴びせ続けたために反則負けを宣せられたが、馬場は満足気に試合内容を賞賛した。

「もう解説するまでもないんですけどね、最後の判定が反則になったところに原、天龍の意地が見られましたね」

当時の全日本ではマイクアピールはほとんどなかったが、怒りが収まらない鶴田はマイクを掴むと「天龍、来い、この野郎! いつでも!」とアピール。「ジャンボにはこういう気迫を見せてもらわなきゃいけないですね。今までちょっと大人しすぎたですね」と、またまた馬場は嬉しそうにコメントした。

馬場は、長州たちが離脱して沈滞ムードだった全日本を変えてくれる何かを欲していた。そしてエースの鶴田が覚醒する材料も欲しかった。それに応えたのが天龍だった。

「俺がジャンボや輪島のケツを叩くよりも、仲間だった天龍にこき下ろされて、リング上で喧嘩腰になって向かって来られれば、そのほうが発奮材料になるだろ」

馬場は、表面的には反体制でも全日本を活性化させ、鶴田を熱くさせる天龍革命を全面的に支持したのである(Vol.3に続く)。

今こそ“最強”ジャンボ鶴田を解き明かそう! 』は次回5/6()更新予定です、お楽しみに。

 

プロフィール
 
ジャンボ鶴田(鶴田友美)
1951年3月25日、山梨県東山梨郡牧丘町生まれ。
日川高等学校時代にはバスケットボール部で活躍し、インターハイに出場。69年4月に中央大学法学部政治学科に入学してレスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級代表として出場。同年10月31日に全日本プロレスに入団した。73年3月24日にテキサス州アマリロでデビューし、ジャイアント馬場の後継者として躍進。インターナショナルのシングル、タッグ、UNヘビー級、日本人初のAWA世界ヘビー級、初代三冠ヘビー級、初代世界タッグ王者に君臨している。87年~92年には天龍源一郎、三沢光晴らの超世代軍と抗争を展開して一時代を築いた。92年11月にB型肝炎を発症して第一線を退き、筑波大学大学院の体育研究科でコーチ学を学んで教授レスラーに。99年3月6日に引退してオレゴン州のポートランド州立大学の客員教授に就任したが、2000年5月13日午後4時、フィリピン・マニラにおける肝臓移植手術中にハイポボレミック・ショック(大量出血)により急逝。49歳の若さでこの世を去るも、“最強王者”としてプロレスファンの記憶の中で生き続けている。