株式会社LITAの代表取締役社長・ PRプロデューサーを務める笹木郁乃。彼女の人生は、小学2年生で遭遇した交通事故で一変した。ニュースクランチでは、彼女の幼少期の頃に形成されたマインドや、これまでの人生を振り返るインタビュー。

▲笹木郁乃【WANI BOOKS-“NewsCrunch”-INTERVIEW】

小学2年生で体験した生と死

PRの力で企業の売上アップを実現し続ける株式会社LITAで、代表取締役社長・ PRプロデューサーを務める笹木郁乃。会社はもちろん、彼女自身がここまで成長を続けられた理由を聞くと、幼少期の頃までさかのぼる必要があると教えてくれた。

「私が今、ここに立っているのは、“明日、死ぬかわからないから、後悔のないように生きる”というマインドを、幼少期の頃に手に入れたからなんです。忘れもしない、おてんばだった小学2年生……道路に飛び出した私は、車にひかれて頭を強く打ち、脳の手術をするまでの大事故を引き起こしてしまいました。

医師からは、“20歳までに手を動かせなくなるなどの障害が出るかもしれない。最悪の場合、昏睡状態から戻らなくなる可能性も……”と告げられました。その日を境にして、いつ死んでもおかしくない人生が始まったんです」

小学校低学年ながら死を意識せざるを得ない状況に陥ったとき、どのような気持ちだったのだろうか。

「もしかしたら、小学2年生だったことが功を奏したかもしれません。どんなに当時を思い出しても、いつ死ぬかわからない体という現実を“そうなんだぁ”程度でしか捉えていなかったんですよね。

ただ、私のなかで大きく変わったのは、人生で何か選択をするたび“明日、死ぬかわからないから、後悔のないように生きる”という基準が形成されていったことです。このマインドが身に付いていたからこそ、私はLITAを立ち上げるほどのチャレンジングな人生を送るようになったんです」

子どもながらに「今日を最高に生きられたのか」「自分が使いたいことに時間を使えているのか」など、自分に問いかけながら進む道を選ぶようになったという笹木。とにかく湧き上がる気持ちを発散したい彼女は、中学へ入学するや否や、「一番強い部活はなんですか?」と教師に問いかけるほどエネルギーに満ちあふれていた。

ただ、死という大きなものを背負う身ではあったが、本当にやりたいことを見つけられるようになったのは、もう少し先のことだった。

「ようやくワクワクするものを見つけられたきっかけは、人生のレールから外れたことでした。大学では、得意科目を活かせる国立大学の数学科へ入学しました。しかし、授業を受けていくなかで、社会と直接かかわりをもって働けるイメージが、どうしても湧かなかったんです。すばらしい仕事だとは理解しつつも、いつ終わるかわからない私の命が“このままでいいの?”と問いかけてくるような感覚がありました。

そんな私の中途半端な気持ちを打ち破ったのは、同じ理系である工学部の授業でした。洗濯機やアイロンなど、生活と直結する製品の研究ができることを知ったとき、明日、死ぬかもしれない私の心が“これだ!”と叫びました。それからすぐに、1年生でありながら工学部へ転部するという、人生のレールから外れる行動に出たんです」

その後の大学生活について尋ねると、決して平坦なものではなかった道のりを教えてくれた。

「当時の工学部機械システム工学科は400人。そのなかで女性はたったの5人でした。そんな環境だったせいか、私に対して“工学部に恋愛をしにきたのでは?”などという評判が立てられてしまったんです」

これまでの笹木の話を聞いて、彼女の心がそのようなことで折れないのは想像がつくが、どのようにして切り抜けたのだろうか。

「幸いにも、大学では成績がランキングで発表される仕組みがありました。負けず嫌いで、いつ人生を終えてしまうかわからないマインドをもつ私は、もちろん燃え上がります。“学びにきたことを周りにわかってもらいたい”“自分の決断を良かったと思いたい”。そんな思いのもと、勉強漬けの日々が始まりました」

授業以外は図書館にこもり、1日3~4時間の勉強を欠かさなかったという。そして、日々の努力は実を結ぶことになる。

「どんどん成績を上げていくなかで、気づけば私のことを変わった目で見る人は誰もいなくなっていました。そして、誰よりも勉強をした結果、私は大学を主席で卒業することができたんです。

この体験は、今でも“自分は絶対に何かを成し遂げられる人間だ”と思える貴重な機会として心に残り続けています。自分を変えていくことに夢中になっていたら、“脳に後遺症が出るかもしれない”と言われていた20歳をいつの間にか越えていました」

▲悔しい気持ちを原動力に大学を首席で卒業した

大手企業に就職も「仕事に打ち込めなかった」

そうして、彼女には「明日、死ぬかわからないから、後悔のないように生きる」という最強のマインドだけが残り、事故による心配は消えていった。

その後、笹木は愛知県の人間なら誰しもが知る大手企業「アイシン精機株式会社(現:株式会社アイシン)」の研究職として従事。しかし、常に最高を探し続ける彼女の人生が、そううまくいくわけがない。

「結論から言って、仕事に打ち込めなかったんです。原因は、とにかく大きな会社に入って、周りから“すごい”と思われたい気持ちで会社を選んだことが大きかったです。あとは、同期との情熱の差を早々に感じたことも理由のひとつです。

私の周りは、車オタクがそのまま研究者になったような人ばかりで、とても充実した表情をしながら仕事に取り組んでいたんです。そんななか、さほど自動車には興味がない私は、まさに“やりがい”と呼べるものを感じられない状態でした」

どうしても気持ちがついていかなかった彼女は、大きなミスを連発。社内からの信頼も失ってしまった。3年間続けたものの、朝起きると涙があふれて止まらなくなり、ついに会社へ行くことができなくなった。

「精神科の先生と相談をしていくなかで、社会貢献をしながら、もっと存在意義を感じられるような仕事がしたい、という思いになりました。そして、一人ひとりの力が重要である小さな会社で働き、いずれ自分の力で大きくさせることを目標に転職活動を開始しました。

ただ、そんな思いつきだけの私を拾ってくれる会社などおらず、20社ほど連続で不採用。そんななか、唯一私を拾ってくれたのが、当時の『エアウィーヴ』でした」