YouTubeチャンネル「VALX 山本義徳 筋トレ大学」は登録者数73万人を超え、累計再生回数2億5,700万回以上を記録している。NPCトーナメント・オブ・チャンピオンズでは日本人初のヘビー級優勝を成し遂げ、その実績と圧倒的な知識量から「筋肉博士」の愛称で親しまれる山本義徳氏。現在も現役メジャーリーガーを含む多くのトップアスリートを指導。まさに筋トレ界の“生きる伝説”とも呼ぶべき人物だ。

そんな山本氏にも、人生の岐路、つまり「土壇場」が2度あったという。これまでの活躍を見れば、さぞ順風満帆な人生だったのかと思いきや、意外にも一般企業の元サラリーマンという経歴を持つ。ボディビルダー界のレジェンドに土壇場を振り返ってもらう。

「普通の人生」か「筋肉の道」か? 人生最大の葛藤

今も昔も、圧倒的なボリュームの肉体を持つ山本氏。しかし、筋トレとの出会いは少し意外なきっかけだった。

「中学の頃、ジャッキー・チェンの映画に感化され、見よう見まねでトレーニングを始めました。その後、高校のラグビー部時代にウェイトトレーニングをはじめたところ、同級生たちよりもベンチプレスの重量が圧倒的に伸びたのです。そこからトレーニングにのめり込むようになりましたね。浪人時代は、午前中は予備校に通い、午後はジムに通うという生活を送っていました。大学合格後も、現役ボディビルダーが集うジムでアルバイトをしながらトレーニングを積んでいました」

学生時代から、山本氏の肉体は規格外だった。当時でベンチプレスは230kg、腕周りは53cm。周囲の誰よりも、その才能は突出していた。やがて、ある野望が芽生え始める。

「コンテストに出場すれば、注目されるだろうという自負もありましたし、“このまま筋肉の道を突き進んでも、成功できるのではないか”という思いが、頭をよぎるようになりました。しかし、迷いに迷った挙げ句、就職活動で内定をいただいた日立系のソフトウェア会社に人事部として入社することを決意しました」

しかし、この決断が、山本氏を大いに苦しめることになる。「普通の人生」と「筋肉の道」。若き山本氏は、人生の選択を前に、激しく葛藤する。

「当たり前ですが、就職後は思うようにトレーニングができない日々が続きました。すると、自分は本当に「普通の人生」を歩みたいのか、どうしても疑問が拭えなくなったのです。やはり「筋肉の道」でも成功できるのではないか、このままで良いのかと自問自答するようになりました。最終的には、入社半年で退職を決意しました。この時期が、おそらく私の人生で最も精神的に揺れ動いた時期でした。両親からも猛反対を受けましたし、まさに人生最初の土壇場だったと言えるかもしれません」

安定したサラリーマン生活を捨て、わずか半年で退職……。周囲の反対を押し切り、山本氏は「筋肉の道」で生きることを決意する。この決断は、吉と出るか、凶と出るか。

退路を断ち挑んだ「筋肉の道」で伝説が始まる

土壇場を乗り越え、退路を断った山本氏は、水を得た魚のようにトレーニングに励んだ。そして、ここから彼の伝説が幕を開けることになる。

「学生時代はベンチプレスにばかり注力していました。しかし、再就職先はボディビルジム。スタッフとして働く以上、会員の方々を指導しなければなりません。そのためには、当然、私自身もベンチプレス以外のボディビル的なトレーニングを学ぶ必要がありました。そうして、ボディビルのトレーニングを実践するうちに、自分自身もボディビルダーとして大会に出場したいという気持ちが芽生えてきました」

なんと、初出場した大会(1994年の「ミスター東京」)でいきなり優勝を飾ることになる。そして、そこから彼のボディビル人生は、怒涛の快進撃を始める。通常なら全国大会を目指すところだが、彼はすでに世界を見据えていた。

「『筋肉の道で食べていく』ためには、プロ選手になることが必要不可欠でした。日本でプロボディビルダーを目指すには、日本大会で優勝し、さらに推薦を得る必要がありました。狭き門だったので、『アメリカで勝ったほうが早い』と考えたんです」

今でこそ、世界大会に出場する日本人選手は増えているが、当時、日本人としてアメリカで戦っていたのは、わずか2、3人。つまり、前例はほとんどなかったのだ。さらに、現代とは比べ物にならないほど、情報も少なかった。

「当時はインターネットも普及しておらず、郵送でエントリーして入金がきちんと届いたかも分からない。現場に行くまで本当に不安でしたが、それでも挑戦する価値は十分あると思いました」

▲アメリカの大会に出るときの心境を語ってくれた

そんな不安をよそに、またもや山本氏は快進撃を続ける。初参戦のNPC アイアンマン・アイアンメイデン(ライトヘビー級)で優勝を果たす。この偉業は日本国内でも大きな話題となり、雑誌の表紙を飾るなど、山本氏の名は一躍脚光を浴びることとなる。

「海外の選手の体を見て“勝てないだろうな”とも思っていましたし、優勝できるとは、全く想像していませんでした。初めてのアメリカでのコンテストでしたから、予選を通過できれば良い方だと考えていました。しかし、結果は優勝。自分でも、驚き、そして幸運だったと感じました」

幸運だったと語るが、その裏には緻密な戦略があった。当時、海外選手との体格差、特にプロポーションの違いは、大きな壁だった。

「大会に出場する前は、海外の選手との間に、やはり大きな壁を感じていました。特に、プロポーションの違いはどうしようもないものでした。例えば、黒人選手は、顔が非常に小さく、手足が長く、ウエストが細い。ボディビルにおいて、骨格的なアドバンテージは非常に大きいです。残念ながら、トレーニングで改善できる差でもありません。そこで私は、自分の強みである筋肉量を、とにかく増やすことに力を注ぎました。そして、体脂肪を極限まで削り、体をバキバキに仕上げる。自分自身が、勝負できる土俵で勝つ。情報が限られている中で、そのような戦略を練って、実践していましたね」

自らの弱点を冷静に分析し、強みを最大限に活かす戦略。この勝利は、決して幸運だけではなかったのだ。