土壇場を乗り越えた男たちにインタビューする「俺のクランチ」。今回はラグビー日本代表としても活躍し、現在は九州電力キューデンヴォルテクスに所属する山田章仁。日本代表が初の3勝をあげた2015年のラグビーワールドカップのメンバーだ。

対戦相手を翻弄する変則的なステップが武器の山田は、自分自身のキャリアにおいても誰にも真似のできない走り方をしてきた。「自分が持つ一番切れる刀がラグビーだった」と語る独特の価値観、そして日本代表に呼ばれた彼に鬼軍曹が突きつけた「土壇場」とは?

▲俺のクランチ 第36回-山田章仁-

「グローバルに活躍したい」という価値観

山田には小さい頃から「グローバルに活躍したい」という思いがあった。歳の離れた姉の影響もあり、小学生の頃から英語を勉強していたことが、彼の意識を世界に向けるキッカケだった。

海外で学びたいという意識も強く、高校卒業後はイギリスの大学に行くことも考えた。結局、慶應義塾大学に“運悪く受かって”しまい断念する。「これまでのキャリアを振り返って後悔があるとすれば、ここでの選択」と山田は話す。

とはいえ、SFCには多様なバックグラウンドの学生が集まっていて、自分自身の価値観を広げられる良い環境だった。ここなら5歳から始めたラグビーもできる。

ラグビー部では大暴れした。1年時からレギュラーを奪い、4年時にはチームを大学選手権準優勝に導いている。ただ「何がなんでも優勝だ!」と歯を食いしばっていたわけではない。常に、その先を見据えていたのだ。

「もちろん優勝はしたかったですけど、自分の身を削ってまで、という思いはなかったかもしれないですね。人生長いですから。実際、夏合宿には1回も行っていないんですよ。1年生のときは怪我で、2年生からは海外に行っていた感じで。“夏合宿が嫌いなだけでしょ? ”と言う人もいたんですけど、そんなちっちゃな話じゃなくて」

大学卒業後はプロラグビー選手になる、という選択をした。頭の中にあったのは、まず「グローバルに活躍すること」。ラグビーはそのための手段だった。

「学生を終える段階で、どこかの分野に飛び込まないといけない。キャンパスの仲間は素晴らしい企業に就職するなかで、彼らにも負けたくないし、自分自身も海外に打って出たい。そのとき僕の腰にある刀で、一番切れる刀がラグビーだったので、それを選択させてもらったという感じです」

ところで、この“プロ選手”というのが当時まだ珍しかった。日本ではトップレベルのラグビーも企業の部活という枠組みの中で行われており、大学で活躍したスター選手も企業に雇用された“社員”として競技を続けるパターンがほとんど。とくに慶應ラグビー部からの大卒プロ選手は、山田が一人目だったという。周囲からは叱咤激励、そして批判もあった。

「何やってんだ、ちゃんと仕事(就職)しろと。せっかく慶應大学という素晴らしい学校を卒業するのにって言われました。まあ、プロラグビー選手という職業が、まだ確立されてなかったですからね」

しかし、自分の信念があったから気にしなかったという。そもそも、プロラグビー選手という選択とて「グローバルな世界で活躍できる人間になりたいがゆえの、 通過点だったんですよ。お金を貯めて海外に行きたいな、ぐらいの感じでしたかね」と笑顔で話す。プロ契約を結んだホンダの条件が1年契約、という身軽さが決め手になったようだ。

エディージョーンズが突きつけた日本代表への覚悟

ただ、1年で海外に行けるほど甘くはなかった。まず国内で結果を残さなければと、2010年に強豪パナソニックの門を叩いた。ホンダ時代は、日本で一番うまい選手と同じぐらいという高額のサラリーを得ていたが、それも3分の1程度になったという。

そして数年後、キャリアにおける「土壇場」がやってくる。2012年、エディー・ジョーンズが日本代表の指揮官に就任してからだ。かねてより、この名将に才能を認められていた山田は、日本代表に声がかかるようになった。そして、2013年のロシア戦で代表戦初出場を果たす。エディーは覚悟を問う人だった。

「今でも覚えているのは、“日本代表になりたいのか、日本代表で活躍したいのか、どっちなんだ。その覚悟でお前の人生が大きく変わるぞ”という言葉です。最初にこの言葉を聞いたのは大学時代だったんですが、お前は何がしたいのか? というのは、その後もエディーさんの言葉の節々に出てきました」

もともと、日本代表やワールドカップへの思いは強いほうではなかったという山田。やや浮ついたところがある、と見抜かれていたのかもしれない。『プレッシャーの力』という著書があるように、日本代表でのエディーの指導は徹底的に選手にプレッシャーを与えて追い込むスタイル。代表合宿は過酷だったという。

▲日本代表として戦ったアジアラグビーチャンピオンシップ2015 写真:アフロ

「まず、拘束時間が長いのがキツかったですね。朝の5時から夜の8時まで、お昼寝の時間も保育園みたいに管理されて(笑)。精神的なプレッシャーもかなりかけられました。エディーさんも今は違うコーチングスタイルをされていると思うんですけど。ただ、当時のジャパンは今みたいに強くなかった。ルーザーズマインド(敗者のメンタリティ)をいかに変えていくのか。そこはかなり大変だったと思います」

そして迎えた2015年のワールドカップ。エディーの指導で鍛え上げられた日本代表は初戦で南アフリカを撃破するなど、初の3勝をあげ世界を驚かせた。覚悟を決め、肉体的にも精神的にもひと皮向けた山田も、サモア戦で“忍者トライ”を披露し、見せ場を作った。

桜のジャージーを着て、ワールドカップという世界の大舞台で走る。山田が想定していた形ではなかったが、まさしくこれもグローバルに活躍する、ということだろう。彼の思いが一つ体現された。ワールドカップ後は、フランスやアメリカリーグへの移籍、という形でもそれを叶えていく。