小佐野景浩氏がジャンボ鶴田の実像に迫る本連載。連載のベースとなっている小社刊『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』は、ジャンボ鶴田の没20年となる5月13日に発売されたが、早くも増刷が決まるなど、大きな反響を呼んでいる。いまなお、多くのファンの胸に生き続けている証だろう。これからもその偉大な足跡を伝えていくべく、今週は「五輪コンビ」で共闘した谷津嘉章の視点から“最強説”を考察する。

全日本プロレスに谷津が順応できた理由

鶴田が最初にシングルで激突したジャパンの選手は、浜口に代わって長州の正パートナーになりつつあった谷津だ。鶴田が72年ミュンヘン五輪グレコ100㎏以上級代表なら、谷津は76年モントリオール五輪フリー90㎏級と、80年モスクワ五輪フリー100㎏級代表(日本が参加ボイコットのために幻の代表)になっている。

谷津は、学年で鶴田より6つ、長州より5つ下のために大学時代に両者と対戦する機会はなかったが、鶴田と同期の鎌田誠〔中央大学レスリング部主将=ミュンヘン五輪フリー90㎏級代表〕、鶴田が勝てなかった磯貝頼秀〔ミュンヘン五輪&モントリオール五輪フリー100㎏以上級代表〕が、「同じ時期にアマチュアで戦っていたとしたら、3人の中で一番強い」と声を揃えるレスリングの申し子だ。

▲アマチュアレスリング時代の鶴田。貴重な1枚である

モスクワ五輪を目指していた時代には、足利工大附属高校(現・足利大学附属高校)の職員としてレスリング部で三沢と川田を指導していた。これは対抗戦真っ只中の当時は、伏せられていた事実である。

「全日本のプロレスはワルツだけど、俺たちはビートの利いたロックだ!」という過激な言葉を吐いて全日本に乗り込んで来た谷津だが、他のジャパンの選手に比べると、全日本に知り合いの選手が多く、スタイル的にも順応できた。それは新日本出身のレスラーとしてはアメリカ生活が長かったからだ。

まず道場でストロング・スタイルをみっちりと叩き込み、フロリダのカール・ゴッチに預けて仕上げるというのが新日本の伝統の育成法だが、谷津はWWFのパット・パターソンに預けられ、最初からアメリカン・スタイルを学んで現地でデビュー。その後、フロリダでヒロ・マツダの教えを受け、ルイジアナ、テキサス州ダラスなどを転戦した。