ジャンボ鶴田に迫る小佐野景浩氏による本連載。連載のベースとなっている小社刊『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』は、ジャンボ鶴田の没20年となる5月13日に発売されたが、早くも増刷が決まるなど、大きな反響を呼んでいる。いまなお、多くのファンの胸に生き続けている証だろう。これからもその偉大な足跡を伝えていくべく、今週はジャパン・プロレスとの抗争から“最強説”を検証していこう。

鶴田を長州より格上とした全日本

▲長州力がジャパン・プロレスに移籍する前からふたりの対決は渇望されていた

1985年、全日本プロレスはターニング・ポイントを迎える。力道山以来の日本人VS外国人という日本のプロレスの伝統的な図式を崩し、新日本プロレスのように日本人対決にシフトしたのだ。

そのきっかけは、前年84年6月に興行面のテコ入れのために新日本プロレス興行と業務提携したことだった。新日本プロレス興行は、83年夏の新日本プロレス社内のクーデターによって退社を決意した元営業本部長の大塚直樹氏以下、新日本の黄金時代に貢献した精鋭営業部員たちが設立した興行会社だ。当初は新日本の兄弟会社として古巣・新日本の興行を請け負っていたが、「純粋な興行会社ならば、ウチの興行も手掛けてみないか?」とジャイアント馬場から声をかけられたのだ。

この業務提携に新日本は態度を硬化させて、8月に新日本プロレス興行に契約解除を一方的に通知。大塚社長は「これからは業務提携している全日本さんの興行がさらに盛り上がるために新日本の選手を引き抜きます」と宣言したのである。その言葉どおり、新日本の9月シリーズ終了翌日の9月21日に人気絶頂だった長州力、谷津嘉章、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇の維新軍5人が電撃移籍したのを皮切りに、レフェリーを含めて13人が新日本を離脱して新日本プロレス興行入りした。選手を抱えた新日本プロレス興行は『ジャパン・プロレス』に社名変更。長州らはジャパン所属選手として、85年1月から提携する全日本マットに新天地を求めたのである。

当時のプロレス界は、84年からWWFがNWAやAWAのテリトリーに進出。各テリトリーのトップ選手を引き抜きながら全米侵攻を開始したため、NWA、AWAと密接な関係にある全日本にとって対岸の火事ではなかった。馬場は「ウチに来ているレギュラー大物外国人選手がWWFに引き抜かれたら、全日本の根幹が崩れてしまう」と危惧していたに違いない。

そうした外国人招聘ルートへの不安と同時に、馬場自身が超一流外国人選手を主役にしていくことに限界を感じていたことも大きい。プライドが高い外国人が絡むと、どうしても両者リングアウト、反則絡み、時間切れ引き分けなどによって綺麗に決着がつくことは少なく、ファンの反応も鈍っていたからだ。

時代の流れの中で日本人対決に方向転換した馬場だが、当初は「レスラーの格を重んじる」という昔ながらの考え方は変わらなかった。週刊ゴングの全日本担当記者だった私は、84年暮れの号で、ジャパンが参戦する85年1月シリーズの『激突!!オールスター・ウォーズ』のポスターを持ったジャンボ鶴田を撮影して「さあ、来い! 長州」と謳う表紙を作ろうと思ったが、全日本から「ジャンボと長州が同格だとファンに思われるような扱いは困る」という理由でNGにされてしまった。つまり「AWA世界王者にもなっている鶴田は世界的なレスラーであり、長州より明らかに格上である」というのが全日本のスタンスだったのだ。

鶴田も全日本の方針に沿うように、「僕の場合は長州だけに的を置いているわけじゃないから。いろいろな敵がいる中のひとりに長州も入って来たという感覚で捉えていますよ」と、長州迎撃に熱くなる天龍源一郎とは対照的にクールなコメントを出した。