ジャンボ鶴田は「普通の人」にはなれなかった

突然の逝去から今年(2020年)の5月13日で早20年……今では鶴田を実際に取材したことがあるマスコミ関係者も少なくなってしまった。残念ながら20年以上も前の私の取材経験と知識、力量では、とてもではないがジャンボ鶴田を伝えきることはできなかった。天龍源一郎と同じようにジャンボ鶴田を後世に伝えることが、いつしか私の中で課題になっていた。

その機会がないままに月日が流れていたが、2017年5月のある日、ワニブックスの書籍編集部の編集長・岩尾雅彦氏から「ジャンボ鶴田さんの本を手掛けてみませんか?」というお話をいただいた。

もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて見直し、今こそ“ジャンボ鶴田は何者だったのか?”を592ページにわたって検証していった。

序盤では鶴田の生い立ちと、レスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級として出場し、アマチュアを引退するまでの大学時代を掘り下げた。

▲高校時代にはバスケでインターハイに出場

その後は全日本プロレス入門、アマリロ遠征、日本デビュー戦など「驚異の新人」として注目を浴びた時代に注目した。一方で、単なる“称賛本”にならないよう、若大将から一転して「善戦マン」と呼ばれた時代にも敢えて触れた。 

そしてジャパン・プロレス率いる長州力との伝説の60分一本勝負、前述の鶴龍対決を経て、後半では三沢光晴、川田利明、田上明(のちに鶴田とタッグを結成)、小橋健太(現・建太)、菊地毅ら超世代軍との戦いを通して、“完全無欠のエース”に君臨した時代をさまざまな証言から検証した。

▲“鉄人”小橋健太(当時)も鶴田の強さを体感した証言者だ

締めは、第一線を退いてから亡くなるまでの晩年の人生に触れた。師匠・馬場との最終的な関係にもスポットを当てた。天龍源一郎と三沢光晴が成し得た馬場フォールを、なぜ鶴田はできなかったのか? その答えを読み取ってほしいと思う。

▲「人生はチャレンジだ!」鶴田は引退後も前だけを見ていた

こうして、気付けば最初に話をいただいてから3年近くの月日が経ち、書き終えてみたら実に592ページになっていた。最終的に「ジャンボ鶴田は何者だったのか?」は読者の皆さんに委ねられる。図らずも波瀾万丈になってしまった鶴田の後半の人生は実にドラマチックだ。結局、ジャンボ鶴田は「普通の人」にはなれなかった。その生き様は紛れもなくプロレスラーだった。亡くなって20年。普通の人でいたかった最強怪物王者に敬意を表して「オーッ!」。

【編集部より】
最後までお付き合いいただきありがとうございました。連載の全記事はタグ“最強”ジャンボ鶴田 からお読みいただけます。また書籍『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(小社刊)も好評発売中です。ぜひご覧ください。

プロフィール
 
ジャンボ鶴田(鶴田友美)
1951年3月25日、山梨県東山梨郡牧丘町生まれ。
日川高等学校時代にはバスケットボール部で活躍し、インターハイに出場。69年4月に中央大学法学部政治学科に入学してレスリングを始め、72年のミュンヘン五輪にグレコローマン100㎏以上級代表として出場。同年10月31日に全日本プロレスに入団した。73年3月24日にテキサス州アマリロでデビューし、ジャイアント馬場の後継者として躍進。インターナショナルのシングル、タッグ、UNヘビー級、日本人初のAWA世界ヘビー級、初代三冠ヘビー級、初代世界タッグ王者に君臨している。87年~92年には天龍源一郎、三沢光晴らの超世代軍と抗争を展開して一時代を築いた。92年11月にB型肝炎を発症して第一線を退き、筑波大学大学院の体育研究科でコーチ学を学んで教授レスラーに。99年3月6日に引退してオレゴン州のポートランド州立大学の客員教授に就任したが、2000年5月13日午後4時、フィリピン・マニラにおける肝臓移植手術中にハイポボレミック・ショック(大量出血)により急逝。49歳の若さでこの世を去るも、“最強王者”としてプロレスファンの記憶の中で生き続けている。