そしてジャンボ鶴田“最強説”が生まれた!
私は大学に入学した80年4月からゴングでアルバイトを始め、すぐに取材スタッフとして仕事をするようになったが、鶴田は10代の新米記者にも先輩記者と分け隔てなく接してくれた。特に年配のレスラーが多かった全日本では取材しやすい人だった。
しかし、私が全日本を担当していた時代、誌面における全日本の主役は天龍源一郎。だから古くからのファンの人たちの間では、私は“天龍番記者”として認知されているはずだ。
なぜ、鶴田ではなく天龍だったのか? ファンの心を掴んでいたのは、自分をさらけ出して全身全霊で戦う天龍だったし、誌面的なことを考えれば、当時の全日本で記事になるようなパッションのある発言をするのは、天龍だけだったからである。
もし、あの時代に天龍がいなければ、ゴングの誌面は新日本一色になっていただろう。全日本担当記者の私にとって、天龍は誌面を確保する切り札だったのだ。
天龍に対して鶴田は、パッションのある発言をすることはほとんどなかった。見出しになるような言葉を発してくれない、記者泣かせのレスラーだった。
それは私が、記者として力量不足だったから引き出せなかったのかもしれないが、いつも余裕しゃくしゃくでムキにならない、本気で怒らない、必死になる姿を見せない。それを美学にしているようにも思えたし、そうした立ち居振る舞いにプライドの高さ、頑固さを感じたのもたしかだ。
「僕は人間ができているんで、何を言われても、何を書かれても怒らないよ」
「天龍がオフの間に道場で毎日汗を流してるって? 僕はゴルフやテニスで上品な汗を流しているから大丈夫ですよ」
そんな拍子抜けするような発言も、今の時代なら面白く記事に展開できると思うが、当時のファンは反発した。しかし、そうしたクールな発言の裏に「なぜ、俺のことを正当に評価しない!?」という鶴田の強烈なプライドと苛立ちが感じられた。
本人は「いやいや、そんなことはありませんよ」と否定するかもしれないが、天龍と相対した時、三沢光晴らの超世代軍と相対した時には明らかに本気で怒り、時にジェラシーの炎を燃やした。それが怪物的な強さを生んだ。そしていつしかジャンボ鶴田日本最強説が生まれた。