小佐野景浩氏がジャンボ鶴田の実像に迫る本連載。連載のベースとなっている小社刊『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』は、ジャンボ鶴田の没20年となる5月13日に発売されたが、早くも増刷が決まるなど、大きな反響を呼んでいる。いまなお、多くのファンの胸に生き続けている証だろう。これからもその偉大な足跡を伝えていくべく、今回は全日プロレス“就職後”間もない1973年からのジャンボ鶴田のアマリロ遠征において、若き青春時代を共にしたスタン・ハンセンの視点から“最強説”を考察する。

アマリロ時代のハンセンとの青春物語

73年3月15日、中央大学を卒業した鶴田は『チャンピオン・カーニバル』の最中の同月22日、中央大学レスリング部の関二郎監督以下全部員の万歳三唱を背に、羽田空港21時40分発のJALロサンゼルス行き最終便でアメリカ武者修行に出発した。

▲アマリロ遠征時の1枚。ここでかけがえのない経験を積む

現地時間22日にロサンゼルスに到着した鶴田は、ダウンタウンのサウスグランド・アベニューにあるオリンピック・オーデトリアムなどを見学してアメリカの空気を味わい、23日夕刻に修行地テキサス州アマリロに到着した。鶴田にとってアマリロ時代の財産はファンク・ファミリーもそうだが、ハンセンとの出会いがあったことだ。

ハンセンは、ドリー&テリーが卒業したウェスト・テキサス大学の出身。大学卒業後にはNFLのボルティモア・コルツ、サンディエゴ・チャージャーズでプレーしたものの芽が出ず、72年9月の新学期から、ニューメキシコ州ラス・クルーセスでグレード7(7年生=日本では中学1年生)の体育の教師とフットボールのコーチをしていた。

そんなハンセンにプロレスラーになることを勧めたのは大学の7年先輩のテリーだ。プロフットボーラーには見切りをつけたが、まだ23歳の若さだったハンセンは、新たな可能性と高収入を求めてプロレスラーになることを決意した。

すぐにアマリロに行ってシニア、ドリー、テリー、ベテランレスラーのゴードン・ネルソンのコーチを受けて、73年1月1日、エルパソでアレックス・ペレスと組んでニック&ジェリーのコザック・ブラザーズ相手にデビュー。鶴田がアマリロに行った時、ハンセンはデビュー3か月足らずのグリーンボーイだったというわけだ。

遠征直後の3月24日にアマリロのTVマッチでエル・タピア相手に白星デビューを飾った鶴田の第2戦の相手はハンセン。同月26日のエルパソで対戦して鶴田が勝ち、4月1日のクロービスでも対戦している(結果不明)。

2回目の対戦後、ハンセンはシニアの指示でフロリダ・テリトリーの『チャンピオンシップ・フロム・フロリダ』に遠征し、8月に再びアマリロへ。ここから鶴田VSハンセンのヤングボーイ対決が頻繁に組まれるようになった。

8月10日のアビリーン=引き分け、12日のアルバカーキ=結果不明、14日のオデッサ=鶴田の勝ち、20日のエルパソ=引き分け、9月3日のエルパソ=結果不明、12日のラボック=引き分け。キャリア的にはハンセンが先輩になるが、オリンピック・レスラーという肩書きがある鶴田の扱いが上だった。