「和を以もって貴しとなす」という日本人の価値観
私たち日本人には、はっきりと人権と法治の価値観、民主主義を是とする価値観があります。日本には、かなり日本的なスタイルの民主主義的価値観が、近代化以前からあるのではないでしょうか。
だから明治維新も、さほど血なまぐさい革命を伴わずに実現でき、第2次世界大戦の敗北後も、米国が押し付けた「平和憲法」やその価値観にもすんなり馴染んでいったのだと思われます。
それはつまり、明文化された法律がなくとも、コモン・ローとでもいうべき日本人の内在した秩序があるということです。
「和を以もって貴しとなす」という、争いを忌避し個人が自らの欲望を律することで調和を保とうとする民族的性格。「判官贔屓」といった言葉に代表される敗者に対する寛容さ、失敗や敗北に対しても美学を見出すような美意識なども、かなり独特です。米国のような歴史の短い多民族国家には、理解不能なものだと思います。
そうした日本的な価値観は、中国共産党の徹底した言論封殺・隠蔽・人民管理・人民搾取とも決して相容れないものです。米国式自由主義社会と中国式全体主義、どちらの価値観が日本的な価値観に近いかというと、やはり米国式自由主義社会でしょう。
日本人を全体主義的という見方もありますが、それは体制から押し付けられるのではありません。自らに内在する倫理感や公徳観から、自ら慎み、周囲に配慮する「日本人的性格」に基づくものです。
苦痛を感じるレベルの抑圧を、お互いが与えないよう“距離を取る”という、ぼんやりした全体主義的な空気は、中国共産党の専制による恐怖政治で、個人の自由や尊厳を奪うやり方とは対極にあるものと思います。
国家は治安を維持する方法を間違ってはいけない
何が言いたいかというと、日本人は中国の全体主義の恐ろしさをきちんと理解すべきだということです。そして、中国のこうした極権体制・専制体制に対しては、人道的立場から「ノー」を唱えるべきだと思います。少なくとも国家として、人権や自由を弾圧する側に加担するようなことがあってはならないと思うのです。
未曾有の大災害が起きたとき、治安を維持する方法として主に2つの方法があります。
ひとつは情報を徹底的に封鎖し、人々の行動を力づくで制限し、経済や人権やあらゆるものを犠牲にしても、強権的に治安が維持される方法です。
もうひとつは、その反対で情報を徹底的に開示し、要請や保障はするけれど、最終的なリスク回避は個人の責任において判断してもらうやり方です。
前者は中国がとった方法で、後者は民主国家のやり方です。国民の知る権利を約束している国家としては、情報隠蔽はできません。
情報を包み隠さず出せば、そのリスクに脅えた国民がパニックをきたすかもしれませんが、そのパニックを避けるためには情報隠蔽ではなく、国民が信頼できる対策を明示し、国民に協力を仰ぐ、という形になります。
世論の支持を得られれば、ある程度の私権を制限できる法律をつくることもできますが、ある程度の手続きが必要なので、必要な制限措置のタイミングを逸することもあります。
政府と国民の信頼関係、あるいは政府の力量が如実に問われるため、一見すれば中国のやり方の方が、WHOが空前絶後と賞賛するように、効果的に見えるかもしれません。しかし、そこには人々がどれほどの苦痛と我慢を強いられ、ときに命の安全を脅かされるかまでは、多くの人が思い至っていないかもしれません。
もし「中国のやり方が素晴らしい」といった賞賛が、さまざまな権威機関から聞こえてきたときには、実際に武漢で何が起きていたのかを、しっかり考えてほしいのです。