一帯を仕切った道源小僧とその女房

『当世武野俗談』(宝暦七年)によると、入江町の鐘撞堂のそばに「道源小僧」と呼ばれる男が住んでいた。

岡場所は、喧嘩や揉め事が絶えないが、道源小僧が出て行くと、うまく収まった。いつしか一帯の親分になった。

そのころ、入江町には千三百余人の遊女がいたが、道源小僧は遊女が客を取るごとに、四文を徴収した。

日々の収入は莫大である。たちまち道源小僧は、大金持ちになった。

派手な生活が目立ち過ぎたのか、道源小僧は町奉行所に召し取られてしまう。首を斬られ、その首は鈴ヶ森の刑場で獄門に晒された。

道源小僧の女房は、およしと言った。

およしは夜、たった一人で鈴ヶ森まで歩いていくと、刑場の番人に大金を渡して目をつぶらせ、獄門台に晒されている亭主の首を取り戻した。そして首を風呂敷に包んで入江町に帰ってきた。

その後、およしは首を本所の本仏寺に葬り、多額の金を布施として納め、盛大な葬儀も営んだ。その規模は、大名の葬送に匹敵するほどだった。

みな、およしの大胆さと度胸に圧倒され、道源小僧の跡目を継ぐことに異論を唱える者などいない。

以来、およしは「道源およし」と名乗り、女親分として本所一帯に、にらみを利かせた。

金にあかせて、およしは歌舞伎役者を男妾にしていたという。

【用語解説】

・切見世(きりみせ)  
局見世(つぼねみせ)ともいった。平屋の長屋形式で、最低水準の女郎屋である。  細い路地の両側に、二畳ほどの部屋が並び、遊女はそこで生活し、客も迎えた。  ちょんの間という、十五分くらいのあわただしい遊びだったが、別途料金を払えば、泊まりもできた。

『江戸の男の歓楽街』は次回9/2(水)更新予定です、お楽しみに!

○今に残る入江町の痕跡

緑4丁目交差点
錦糸町駅から京葉通りを両国方向にすすむと緑4丁目のエリアに(編集部撮影)
撞木橋跡
かつてここに撞木橋という橋が架かっていたという。本文に登場する「鐘撞堂」を連想させる(編集部撮影)