江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。現在の東京都江東区門前仲町一丁目にあたる「深川仲町」は、江戸時代には岡場所としてたいそう繁盛したという。その勢いは吉原以上だったそうな。ここで堪能できた食と性とは?

女郎屋は簡素な理由

深川永代寺門前仲町に「仲町」と呼ばれる岡場所があった。「深川仲町」ともいう。現在の、東京都江東区門前仲町一丁目である。

図1『かくれ閭』(石塚豊芥子:著) 国会図書館:蔵

図1に、仲町が描かれている。

仲町は、深川七場所の筆頭であると同時に、江戸でも有数の岡場所だった。江戸時代後期には、仲町は江戸でもっとも繁華な歓楽街となり、その隆盛は吉原をしのぐほどだった。

とくに、仲町の芸者は有名で、吉原の花魁に匹敵すると言われたほどである。仲町はもちろんのこと、深川の芸者全般が転ぶ(金をもらって客と寝ること)のは常識だった。

そのため、仲町の芸者は、吉原の遊女とも張り合ったわけである。

図2『風俗通』(松風亭如琴:著/寛政12年) 国会図書館:蔵

図2は、女郎屋の入口で、行商の魚屋が荷をおろし、売り込んでいるところである。暖簾をくぐって入ると小さな土間があり、すぐそばに台所があった。

煙管を手にして立っているのが、女郎屋の主人であろう。

読者の中には図2を見て

「とても女郎屋とは見えない」
「江戸有数の岡場所で、深川七場所の筆頭とは思えない」

という感想をいだくかもしれない。

違和感ももっともである。

じつは、仲町は「呼出し制」をとっており、客はいったん料理屋にあがり、女郎屋から遊女を呼出すシステムだったのだ。男と遊女が床入りするのも、料理屋の奥座敷である。

そのため、女郎屋は遊女の寮に過ぎない。客が上がるわけではないので、おのずと仲町の女郎屋は造りも簡素だった。