内藤新宿と妙法寺

内藤新宿が男の歓楽街として繁栄した理由のひとつに、妙法寺がある。

明和(1764~72年)期から、日蓮宗妙法寺(東京都杉並区堀之内3丁目)の信仰が盛んになった。

▲図1『絵本江戸土産』 国会図書館:蔵

図1に、妙法寺が描かれている。

妙法寺は「堀の内の御祖師さま」や、たんに「堀の内」とも呼ばれることが多かった。

病人のいる家では、堀の内(妙法寺)でもらった加持の符を壁や柱に貼り、回復を祈願する。これを「張護符(はりごふう)」と言った。

江戸の老若男女は行楽を兼ね、内藤新宿を経由して盛んに堀の内に参詣に出かけた。

ところが、男はかこつけが多かった。つまり、堀の内参詣にかこつけて出かけ、実際は内藤新宿で遊ぼうという算段である。

戯作『甲駅新話』(大田南畝:著/安永4年)に、参詣帰りの若い男ふたりが内藤新宿にさしかかる。

ひとりが、さそう。

「なんと、金公、どこぞへ、あがろうか」

金公と呼ばれた男は、親がうるさいので、

「堀の内に籠ったとも言われやすめえ」

と、女郎屋へ泊るのをためらう。

ところが、ひとりは、

「張護符せえ持って帰れば、親父はあやなせるわな」

と、親などいくらでも誤魔化せると、さそう。

けっきょく、ふたりは女郎屋に泊まる。