読み解くにあたっての注意点
第一巻はヨーロッパとアメリカにおけるKGBの活動がテーマで、第二巻はラテンアメリカ・中東・アジア・アフリカを扱っています。
第一巻は『ミトロヒン文書 欧州と西側におけるKGB』(英国版/未邦訳)と『剣と盾―ミトロヒン文書とKGBの秘密の歴史』(米国版/未邦訳)というタイトルで、異なる出版社から出ています。タイトルが異なるだけで、中身は同じです。
ミトロヒン文書の存在は、この本の出版で公になりました。それまでどうやって秘密を保ちつつ出版計画を進めるかが、イギリスの情報機関や政府を挙げての大プロジェクトでした。
二冊目も同様に、二つの出版社から異なるタイトルで同じ内容の本が刊行されています。『ミトロヒン文書II KGBと世界』(英国版/未邦訳)と『世界は我らの思いのまま KGBと第三世界のための戦い』(米国版/未邦訳)です。
ところで、これらの書籍刊行時には、ミトロヒン文書そのものは非公開のままでした。しかし、2014年7月にケンブリッジ大学チャーチル・カレッジが、約7000ページ分(書籍などで別に公開されたものを除く)を公開したので、今後はもっと研究が進んでいくと思われます。
さて、このように様々な理由で、重要極まりないミトロヒン文書ですが、読むにあたって気をつけるべきことも、いくつかあります。
第一に、ミトロヒン文書は、ヴェノナ文書やヴァシリエフ・ノートなど、公開された他の旧ソ連関係の公文書類と比べて、時間的・地理的に広い範囲を扱っているものの、30万冊もの文書庫から写すことができたのは、ほんの一部だということです。ミトロヒン文書は群を抜いて文量が多いですが、それでも膨大なKGB文書のわずか一部でしかありません。
第二に、ミトロヒン文書には、オリジナルのKGB文書ではないという制約が常につきまといます。
これには二つの意味があります。ひとつは、どんなに忠実に写したとしてもオリジナルではないので、法的には証拠能力がないことです。
もうひとつは、ミトロヒンという一人の人物の視点や、解釈というフィルターを通したものにならざるを得ないことです。ミトロヒン文書は、細かく写し取ったものもあれば、要約や抜粋もあります。ミトロヒン自身も、大急ぎで作成した要約には、自分の感情的な反応が入り込むことがあったと述べています。
第三に、ミトロヒン文書がKGB文書の内容を正確に写し取っているとしても、KGB文書に書いてあることが、すべて事実であるとは限りません。単純な間違いが紛れ込むこともあれば、意図的に一部の情報を伏せたり変えたりすることだってあり得ます。
ですから、これはミトロヒン文書に限らず、近年公開が進んでいる公文書類すべてについて言えることですが、ひとつの文書に書いてあることを鵜呑みにするのではなく、他の文書と照合して分析することが必要です。
英米にとって不都合な部分は隠されている
第四に、イギリスの秘密情報部がミトロヒン文書の整理に関与したことです。ミトロヒンは、イギリス大使館で秘密情報部の機関員と会い、秘密情報部の援助によってイギリスに移住し、エージェントとして秘密情報部に受け入れられています。
ロシアに残してきた文書の回収も、秘密情報部が行いました。イギリス移住後に行った文書の整理には、当然、秘密情報部やイギリス政府が関わっていました。解説書が英米同時に刊行されたことから、イギリスだけでなくアメリカも関与したのは明らかですが、ペーパーバック版『剣と盾』の前書きの注にも、はっきり書いてありました。
私[アンドルー]が[ミトロヒンの]アーカイヴにアクセスする前に、ミトロヒンと緊密な共同作業をしていたSIS[秘密情報部]情報将校がアーカイヴのかなりの部分の翻訳と綿密なチェックを済ませていた。セキュリティ・サービス[保安局]とアメリカの情報機関の情報将校たちも翻訳に協力していた。翻訳されたアーカイヴは、SISの一室で、ハードコピーと、高度な索引・検索ソフトウェアがついたコンピュータ・データベースの両方の形で提供された。
英米の情報機関が、翻訳と整理に関わっていたのですから、英米にとって都合の悪いことは当然伏せているでしょう。解説書刊行前に、英米の間で、どこまで公開してよいか、どこを伏せておくかを、しっかり協議していたはずです。
さらに言えば、イギリスが、ロシアが表に出したくない情報を伏せておく代わりに何かを得る裏取引を、ロシアとの間でやっている可能性もないとは言えません。
チャーチル・カレッジで公開されているミトロヒン文書も、同様に未公開部分が相当に残っているはずです。公開されている文書のページ数を合計すると約7000ページ、オリジナルの手書きが10万ページですから、タイプ清書で目減りするにしても、未公開部分がかなりあるのは確実です。
このように極めて限られた部分しか公開されていないミトロヒン文書ですが、その研究を通じて、驚くべきことが分かってきているのです。