中国ウォッチャーの第一人者・福島香織氏は語る「2001年当時の香港人には、中国に飲み込まれることへの危機感はさほどなかった」と。そんな中で起きたSARSの蔓延、そして中国共産党による隠蔽、それが51万人の香港市民による平和デモ行進へと繋がるのです。

2001年の中国には世界中から関心が集まっていた

香港は私にとって最初の海外赴任地であり、とても思い入れのある土地です。2001年2月に香港に赴任し、金鐘(アドミラルティ)のパシフィックプレイスというショッピングモールの上にあるオフィスビル、その中に入っているフジテレビ香港支社の一角に机を置く形で、私の香港勤務は始まりました。

この頃の香港は、中国語(普通話)がほとんど通じず、記者会見やインタビューは広東語か英語。普通話しか使えない私には、なかなか荷の重い職務でしたが、ほとんどガッツだけで、超絶下手な英語と日本語や、普通話が堪能な香港人の友人たちの助けを借りながら、なんとか日々の取材をこなしていました。

当時の香港は、中国にハンドオーバーされてから4年目。日本の新聞読者の香港に対する興味はすでに薄れていて、むしろ北京五輪の誘致が決まって、国際的関心は中国に集中していました。私も香港にいながら、広東省など中国南部の取材に割く時間の方が多かった気がします。

もちろん、定期的に「香港の一国二制度が危うい」といった類の記事は書いていたのですが、今から思えば、当時の一般的香港人には、中国に飲み込まれることへの危機感はさほどなかったと思います。

香港返還前は、香港が中国の一部になることを恐れて脱出する香港人は多かったと思いますが、返還されてみれば、むしろ中国の経済成長の恩恵を受ける部分も多く、思ったほど香港の自由も損なわれていないということで、少しずつ海外に脱出した香港人も戻って来たころでした。

もうニュースバリューがないとされた香港

一方で、当時の上海は昇り竜のごとく景気がよく、香港に代わる国際金融都市になるのではないか、という期待もあって、香港の相対的な地盤沈下の兆しが見え始めていたころでもありました。

そのため香港人も含めて、もはや香港は、国際金融都市の役割も、また中国の国際社会に対するショーウインドウの役割も、上海に取って代わられるのではないか、と予測するムードがありました。

▲香港・金鐘(アドミラルティ) 高層ビル群 イメージ:PIXTA

私は2001年2月に香港に赴任してきましたが、翌年春に同グループのフジテレビが香港支局を撤収するという話が出たとき、本社から「産経新聞香港支局もたたんで、五輪を控えた北京の中国総局に異動して来い」という内示を受けました。「香港は、もうニュースバリューがない」というのが、会社上層部の判断だったようです。

今思えば、その判断は間違いであったと思います。ですが、そのときは産経新聞だけではなく、世界中が「中国は北京五輪の開催に向けて、いっそう改革開放が進み、経済の改革開放が進めば、おのずと政治の民主化も進む」と信じて疑わなかったのです。